なぜ光秀は信長を討ったのか
そもそもなぜ光秀は信長を討ったのか? それについては、以下のような説をよく耳にします。
(1)怨恨説:光秀は信長に、他の家臣が見ている前で折檻されるなど、恥をかかされていた。それを遺恨に思い、信長を襲った。
(2)野望説:光秀は天下人になろうとする野望を抱いていた。織田家の重臣たちが京都から遠くに離れているので、いま信長を討ち取れれば天下人になれる。少なくとも、畿内を制圧すれば柴田勝家や羽柴秀吉らに対応できる。そう考え、襲撃を実行した。
(3)前途悲観説:天下統一の事業が終わったら、自分の役目は終わる。信長は林秀貞、佐久間信盛など、長く織田家に仕えてきた重臣も追放するような人物だ。まして、元来が織田家の外様である自分にはますます居場所がない。ならば機先を制して信長を討とう。
(4)敵討ち説:光秀は丹波国を統一するときに、八上城の波多野兄弟に降伏をうながし、自分の老母(もしくは叔母)を人質として、兄弟とともに安土に赴いた。ところが信長は兄弟を問答無用で処刑してしまい、約束違反を怒った八上城の城兵は、光秀の老母を殺害した。光秀は敵討ちのために信長の命を奪った。
ただし。こうした説は歴史研究の場で検討されることは先ずありません。