歴史的人間の内側に入り込むことはできない
それはなぜか。確からしい史料に基づいていないから、です。
物語として本能寺の変の分析に努めるのはもちろん自由ですし、興味深い。語弊のある言い方かもしれませんが、歴史推理をどんどん楽しんでほしい。
ですが、科学的、学問的な見地からするとどうかといえば、歴史論文として成立することはない、と言わざるを得ない。歴史研究というのは、随分と窮屈なものなのです。
これは僕自身くり返し述べていることですが、歴史研究は歴史的事件の輪郭を明らかにすることはできても、歴史的人物の心情を一義的に捕捉することはできないのです。
たとえば源頼朝は弟の義経を滅ぼしました。
それこそ積極的に自身の権力の障害となりそうな弟を排除したのか、それとも彼個人としては弟を愛していたのに、鎌倉幕府全体を考えて涙を振るって処断したのか。
そこは頼朝が自身の心のうちを綴った文書がない以上、分かりようがないのです。
いや、かりにそうした文書があったとして、今度はそれは本物なのか、本物だとして、頼朝は本心を記しているのか、と手間をかけて検討しなくてはなりません。
結局、歴史的人間の内側に入り込むのは、基本的に不可能なのです。