信雄・秀吉と信孝・勝家との対立
ところが、三法師を擁した信孝は「織田体制」を主導しようとする振舞が多くなり、信雄や秀吉がこれに反発するようになった。
他方、秀吉の台頭を快しとしない柴田勝家は信孝に加担し、信雄・秀吉と信孝・勝家との、両者の対立が激しくなっていった。
十月十五日に秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を強行したことは、信孝・勝家と秀吉との関係をいっそう悪化させることになった。
このような状況の中で、秀吉は十月二十八日に京都本圀寺で四宿老のうちの丹羽長秀・池田恒興と語らい、信孝・勝家が謀叛を起こしたという名目で、新たに信雄を織田家家督に擁立することとした。
十一月一日付石川数正宛羽柴秀吉書状によれば、この間の事情を記すとともに、「家康にも御意を得たいと思っていたところ、ちょうど書状をもらって満足している」と述べている。
これを受けて家康は、十二月二十二日付の秀吉宛書状で、信雄が家督を相続したことについて、「われわれも大悦これに過ぎません」と祝意を表したのであった。