秀吉軍と勝家軍の戦い
十二月になると秀吉はいよいよ軍勢を動かし、勝家が深雪で動けない隙を狙って、まず勝家の養子勝豊が入っていた長浜城(滋賀県長浜市)を攻撃し、これを降した。
ついで岐阜城の信孝に迫ったところ、勝家の援軍を期待できない信孝は、降伏して三法師を差し出した。三法師は秀吉軍によって、ただちに修復中の安土城に移された。
信雄は翌天正十一年(一五八三)正月末に安土城に入り、以後三法師の「名代」かつ織田家家督として政務を執ることになった。
二月になると、秀吉は伊勢に戻っていた滝川一益討伐のため北伊勢に向かったが、信雄も出陣して一益の居城長島城(三重県桑名市)などを攻撃した。
ところが、柴田勝家が近江国北部に出撃してきて柳ヶ瀬(滋賀県長浜市)に布陣したため、秀吉も軍勢を送って木之本(同前)に本陣を置き、しばらく対峙することになった。