勝家の自害
四月になると、勝家の出陣に呼応するように信孝が岐阜城で挙兵した。
秀吉は信孝を討つために十六日に大垣城(岐阜県大垣市)に着陣したが、この機をとらえて二十日に勝家の甥佐久間盛政が秀吉方の中川清秀を討ち取った。
この報に接した秀吉は急遽兵を木之本に返し、翌二十一日に動揺して兵を引こうとした佐久間軍を攻撃して切り崩し、ついで賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で柴田軍と交戦し勝利を収めた。
いわゆる賤ヶ岳の合戦であるが、この合戦で福島正則・加藤清正らの馬廻衆が戦功をあげたことは、「賤ヶ岳の七本槍」としてよく知られている。
秀吉軍は敗走する柴田軍を追って越前に入り、勝家の居城北ノ庄城(のちの福井城。福井県福井市)を包囲した。勝家は抗しきれず、二十四日にお市の方とともに自害して果てた。