信雄と秀吉との関係が険悪に
信孝が自刃し美濃国が空白になると、秀吉は摂津を領有していた池田恒興・元助父子を美濃に移し、恒興は大垣城に、元助は岐阜城に入った。
秀吉は摂津を領有することで畿内の要衝大坂を手中にし、ここに自身の居城を置くべく、九月から大規模な改築に着手した。
他方で信雄は、賤ヶ岳の合戦後にそれまでの尾張に加えて伊勢・伊賀も領有することになるが、安土城からは追われて伊勢長島城に入った。三法師は近江坂本に移され、秀吉の庇護下に置かれるようになった。
こうして、信雄と秀吉との関係は次第に険悪になっていき、『家忠日記』の十一月二十日条によれば、信雄が上方で切腹したという風聞が流れるほどの事態となっていた。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。