秀吉が見せ始めた「天下人」への意欲

お市と浅井長政との間に生まれた三人の女子(茶々・初・江)は、落城前に城から出て、秀吉に委ねられた。信孝は勝家に与したため、賤ヶ岳での勝利を受けて信雄が岐阜城の信孝を攻撃した。

信孝は降伏するが、信雄の命により、五月二日に大御堂寺(愛知県美浜町)で自刃した。さらに六月には一益も降伏した。

こうして、信雄・秀吉に対抗する勢力が一掃されたことにより、これまでの「織田体制」は、織田家当主の信雄とそれを宿老の秀吉一人が補佐するという新たな体制となった。

信雄は五月二十一日には前田玄以を京都奉行に任命するなど、政務への意欲を示していた。しかしながら、両者の蜜月が長く続くことはなかった。

なぜなら、秀吉が「織田体制」から脱して、自らが天下人になろうとする意欲を示し始めたからである。