名門北畠氏を継ぐ

信雄は、嫡男信忠より1歳年下、永禄元年(1558)生まれ。幼名は茶筅(ちゃせん)。母親は信忠と同じく生駒氏出身の女性(法名は久庵)で、信忠にとっては唯一の同母弟である。

『織田信忠―天下人の嫡男』(著:和田裕弘/中公新書)

異母兄弟である信孝は、信雄より20日ほど早く生まれたが、出生の報告が遅れ、三男とされてしまったという。

永禄12年(1569)の北畠攻めの時の和平交渉で、信雄は養子として送り込まれて北畠氏を名乗り、元服後は北畠風の具豊(ともとよ)を名乗った。その後、信意(のぶおき)、信勝、信雄などと改名し、入道して常真(じょうしん)。

名門北畠氏を継いだことで官位の昇進は信忠以上に早かった。信忠と同腹であり、信長からもかわいがられたと思われるが、成人後は信長から譴責(けんせき)されたこともあった。

北畠氏に養子に入ったのちも信忠とは仲が良かったようである。宣教師の記録によると、北畠氏に養子入りする前は信忠と一緒に岐阜城で暮らしていたことがわかる。

信雄は、天正4年(1576)、北畠具教(とものり)ら一族を粛清し、文字通り北畠家を乗っ取ったが、さすがに養父であった北畠具房(ともふさ=具教の嫡子)には手を掛けなかった。具房は「ふとりの御所」「大腹御所」のあだ名があり、存命させても脅威にはならない人物だったのだろう。