伊賀攻め敗退で信長の逆鱗に触れる

北畠具教の影響を排した信雄は、信長から付けられた家臣とともに北畠氏をまとめ上げる必要があったが、北畠旧臣と信長から付けられた織田家臣との間の軋轢(あつれき)はなかなか解消しなかった。信雄が軍事的に活躍できなかったゆえんでもあった。

天正5年(1577)の雑賀(さいか)攻めでは他の一門衆同様に信忠の指揮下に入り、翌6年の大坂本願寺攻めでも総大将の信忠に従った。

しかし、天正7年には独断で伊賀国(三重県北西部)に侵攻している。この伊賀攻めについては著書で詳しく述べた(中公新書『天正伊賀の乱』)。

前年に荒木村重が謀反したため、本来であれば信雄軍も村重攻めに出陣すべきだったが、これを忌避するため手近の伊賀の平定を狙った。村重攻めでは援軍としての役割になるが、伊賀攻めなら単独で平定すれば領国拡大になると家老衆にそそのかされてのことだった。

平定したのならまだしもだが、敗退し、しかも有力武将の柘植三郎左衛門(保重)を討死させてしまった。信長の逆鱗(げきりん)に触れ、折檻状(せっかんじょう)がしたためられた。