本能寺の変での信忠・信雄の動向

本能寺の変の時、信忠はすぐ近くの妙覚寺に宿泊していた。急報で変事を知って駆けつけようとしたが、すでに本能寺は重囲に陥っていた。

そのまま安土、岐阜へと帰還し、態勢を立て直して光秀を討つという選択肢があったが、信忠は要害堅固な二条御新造に移って光秀軍を迎え撃つ道を選んだ。

二条御新造での戦闘は激烈を極めた。信忠軍は多勢に無勢、しかも素肌に帷子(かたびら)一重、武具もままならないなかでの応戦だった。

信忠は「敵軍の中に入り、兵法の古流・当流秘伝の術、英傑の一太刀の奥儀を尽くし、切って回って敵勢をなぎ倒す」活躍をしたが、光秀軍は隣接する屋敷の屋根に上り、信忠勢を見下ろすかたちで弓・鉄砲を打ちかけた。

この作戦が決定的となり、御殿にも火が回り、最期を悟った信忠は、側近に介錯を命じ、見事な最期を飾った。数えで26歳の若さだった。

信雄はどうかというと、居城の伊勢・松ヶ島にいたと思われるが、右往左往するだけで、弔い合戦には何ら貢献しなかった。