一門衆の中でも突出した待遇を受けていた信雄

しかし、信長も人の親。汚名返上の機会を与える。

(「本朝智仁英勇鑑」「織田上総介信長」/月岡芳年 /東京都立図書館所蔵

2年後の天正9年(1581)、信雄を総大将に抜擢。伊賀攻めを敢行し、四方から伊賀に乱入させた。

滝川一益、丹羽長秀の重鎮に加え、近江(滋賀県)や大和(奈良県)など隣国から諸将を動員し、圧倒的な兵力を動員して平定。伊賀国4郡のうち3郡を信雄に与えた。

翌年の武田攻めにも従軍したが、またしても信長から譴責された。

信長の後継者として嫡男信忠は別格の存在だったが、信雄も同母弟として一門衆の中でも突出した待遇を受けていた。

しかし、本能寺の変に際しては、安土留守居の蒲生賢秀から救援要請があったにもかかわらず、優柔不断な行動しかとれなかった。