樋口さんの幼少の頃、2歳違いの兄と

黒井 その頃、お互い50代。しかし昔と比べると、「老い」を取り巻く状況が変わりましたね。

樋口 当時は「人生80年」と言われ、身の回りに80まで生きる人はそういませんでした。それが今や人生100年時代です。まさか91歳同士で対談する日が来るとは。(笑)

黒井 いまや貴重な同級生ですよ。次第に、友人も亡くなって数が少なくなっていきますし。

樋口 この年になるとそういう「気づき」が増えますね。たとえば、昨日のことより、昔の出来事のほうが記憶に鮮やかだったり。

黒井 そうそう、樋口さんは──小学生当時の姓は〈柴田さん〉でしたが、子どもの頃から目立っていましたよ。背が大きくて、いつも友達を引き連れている感じで(笑)。当時は男子と女子でクラスが分かれていたけれど、僕も背が高かったから、校庭に並ぶと、なんとなく存在が目に入りましてね。

樋口 それはそれは……(笑)。優秀な子が越境入学してくる学校で、黒井さんは物静かな秀才という印象でした。確か級長会議でご一緒した記憶があります。

黒井 忘れられないのは、小学校6年生での学童集団疎開。小学校前半の3年間は楽しかったけれど、だんだん学校が軍国主義化していって。

樋口 疎開先は長野県の湯田中渋温泉郷にあるホテルでしたね。東京から電車に揺られて着いたら、水洗トイレがあったのでびっくり。自宅は汲み取り式でしたから。疎開にはどのような思い出がありますか。

黒井 男子と女子は住む階が違い、交流はなかったですね。あの時代の空気とでも言うのかな。男子はミニ軍隊のようにヒエラルキーができていて、勉強ができる子がいじめのターゲットになったりもした。

1部屋10人くらいでしたが、目をつけられた子は廊下に寝かされたりして─。たまにボスが入れ替わったり、いじめの対象が変わったり。東京では水平だった友人関係がガラッと垂直に変わり、子どもの集団生活の残酷さを痛切に感じました。

樋口 各クラスに寮母さんがいましたでしょう。

黒井 いましたね。

樋口 寮母といっても、女学校を出たばかりの、10代の女の子。その中にもヒエラルキーがあって、私たちの寮母さんはいじめられる側になってしまった。正面切ってはいじめる側に抗議できないから、「今日の夕方、時間とってくださいね」と言って、慰めるためにみんなで歌ったり踊ったりしたんです。

私たちの気持ちが伝わったのでしょうね。途中で「わかる?ありがとう」と涙ぐんでいらしたのを覚えています。