詰襟の学生服を着た黒井さん

空襲、家族の死を経てそれぞれの道へ

黒井 1945年、東京で卒業式があるということで、湯田中を出たのが3月10日。よりによって東京大空襲の日です。列車が山を下って高崎に近づくと、東の空が赤い。朝焼けかと思ったら、男性教師が「そうではない」と顔をこわばらせていた。上野に着いたら、周辺がくすぶっていてすごく焦げ臭かったんです。

樋口 東京大空襲では、一晩で10万人以上もの人が亡くなった。じつは私は、兄が危篤だと連絡を受け、3月6日に一足先に一人で帰京したんです。

黒井 はぁ~。よく一人で帰ったなぁ。

樋口 兄は結核性脳膜炎で亡くなり、私も兄からうつったのか、結核にかかりました。5月に山の手大空襲があり、わが家は焼け残ったものの、母が「恵子さん、あなた死にに帰ってきたようなものじゃない」と嘆いたのを覚えています。幸い生き延びましたが……。

黒井 そういった体験はもうご免こうむりますね。卒業式の日、僕らが椅子を並べていたら空襲警報が鳴って。ただちに家に帰れと言われ、その後学校から一切連絡はなし。

戦後数十年経って、卒業証書がほしい場合は申し出よと区から通知があった。戦時中のことを思い出すとなんだか頭に来て、「そんなものいるか!」と思いました。

樋口 あの頃、先生方も軍国主義化していったでしょう。

黒井 僕の担任はその最たるものでした。集団疎開の間も、戦況の痛ましさを紛らわすためか、僕らを廊下に並ばせて「神風特攻隊」など軍歌を歌わせた。

樋口 その先生、2歳違いのうちの兄を目の敵にしたんですよ。兄は文学を愛する反戦少年。兄のこともあって、私も憎まれました。でも、友達はほとんどみんな〈柴田さん〉を支えてくれました。(笑)