「特攻と言っても、怖れていては前に進めない」

前甲板に整列した全乗組員に、有賀艦長は、「出撃に際し、いまさら改めて言うことはない。全世界が我々に注目するであろう。ただ全力を尽くして任務を達成し、全海軍の期待に添いたいと思う」と訓示した。

清水の回想─。「飛行機の護衛のない艦隊が、敵地に乗り込んで行ったらどうなるか、これまでの戦訓からも明らかです。私たちも無事に沖縄へ着けるとは思わない。しかし、もし万が一、天候が悪かったりして、敵機の攻撃を受けずにたどり着くことができたら、命令通りに撃ちまくるだけだと思っていました。特攻と言っても、怖れていては前に進めない。死ぬまでは生きてるんだからと思って、遺書も書きませんでした」

『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(著:神立尚紀/講談社ビーシー)

清水は明治45(1912)年、広島県呉市に生まれた。昭和4(1929)年、広島県立呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)4年生を修了して海軍兵学校に入校。卒業後は駆逐艦から戦艦まで、さまざまな艦で勤務し、昭和19(1944)年10月の比島沖海戦では、副長として乗組んでいた軽巡「阿武隈(あぶくま)」が撃沈され、2時間あまりの漂流の末、救助されるという体験も持っていた。当時32歳、生粋の船乗りと言っていい。「大和」には、出撃準備命令に続いて、すぐさま連合艦隊からの出撃命令が届いた。

〈海上特攻隊ハY ─ 1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入敵ノ水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス〉(連合艦隊電令作第六〇七號 四月五日一五〇〇)

「この晩、艦内で最後の酒宴が行われました。可燃物はすでに陸揚げしているので、鉄の床に座っての宴会です。乾杯、乾杯で酔いつぶれた私を、部下の下士官たちが皆で私室に担ぎこんでくれました。『分隊長、最後ですから私たちで毛布を掛けさせてください』という部下に、『最後ではないぞ、この調子で明日も寝かせてもらうからな。大和が沈むものか。皆、頑張れよ』と声をかけました。そのときの毛布の温かみは、90歳になったいまも忘れられません。そこで、『大和は絶対に沈まんぞ、沈むまではナ』と付け加えたところ、皆どっと爆笑し、『おい、撃って撃って撃ちまくろう、この大和を沈めてたまるものか』と威勢のよい声が、いつものにこやかな顔から返ってきました」