これが祖国の見納めと自分に言い聞かせた

出撃当日、4月6日は、海辺近くに散在する桜がまさに満開、松の緑に映えて美しく、清水は、これが祖国の見納めと、双眼鏡をのぞきながら自分に言い聞かせた。

午後3時20分、「大和」以下、軽巡「矢矧(やはぎ)」、駆逐艦「冬月(ふゆつき)」「涼月(すずつき)」「磯風(いそかぜ)」「濱風(はまかぜ)」「雪風(ゆきかぜ)」「朝霜(あさしも)」「初霜(はつしも)」「霞(かすみ)」の10隻は、徳山沖を出撃した。

瀬戸内海を一歩出ると、そこはもう、敵潜水艦が待ち構えている戦場である。「大和」は警戒を厳重にしながら、豊後水道を南下した。

夜が明けて4月7日。この日の朝、第五航空艦隊司令長官・宇垣纒(うがきまとめ)中将の命を受けた、第二〇三海軍航空隊の零戦10機と、第三五二海軍航空隊の零戦12機が交代で「大和」上空に飛来、3時間あまりにわたって上空哨戒(護衛飛行)を実施した。

零戦隊が引き揚げた直後から、2機の米軍飛行艇が、遠く低空で「大和」に触接(しょくせつ)を始めた。「撃ち方用意」が下令され、主砲、副砲をそちらの方向へ向けると、敵機は雲のなかに隠れた(午前10時18分。記録では、「主副砲射撃開始」とあるが、清水は、この飛行艇に対しての射撃は間に合わなかったと回想している)が、約2時間後の12時32分、敵艦上機の大群が来襲した。

「雲が低くて、電探(レーダー)では捕捉しているのに、敵機の姿がなかなか見えない。飛行機に対しては電探射撃ができなかったんです。やがて雲の合間から黒い点々のような飛行機が見えたと思ったら、敵機は突然、死角の後方から急降下してきて、爆弾が後部指揮所を直撃しました。そこには後部副砲の指揮官・臼淵馨(うすぶちかおる)大尉がいたんですが、彼はその一弾で戦死してしまった。私は、ふつう真っ先に狙われるのは前檣楼(ぜんしょうろう)だから、臼淵大尉には後部にあって、私の戦死後の副砲指揮を任せるつもりだったのが、裏目に出てしまいました。何とも無念でしたね……」