戦艦「大和」(写真:『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』より)
1945年8月15日に太平洋戦争が終結してから78年目を迎えた現在、軍人として戦争を経験した人の数も少なくなりました。そのようななか、28年前から、戦争体験者にインタビューを続け、語り継いでいるのは、報道写真家の神立尚紀さん。今回は、神立さんが行った多くの取材のなかから、戦艦「大和」副砲長・清水芳人海軍少佐のお話を紹介します。

『特攻』の2文字が、異様なまでに目に焼きついた

「『思ヒ付キ』作戦ハ精鋭部隊ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ」
昭和20(1945)年、戦艦「大和」副砲長・清水芳人海軍少佐

「准士官以上、第一砲塔右舷急ゲ」「総員集合五分前」の号令が、戦艦「大和」の艦内スピーカーを通して響きわたったのは、昭和20(1945)年4月5日、午後3時過ぎのことである。

すでに米軍は沖縄に上陸し、日本陸海軍は沖縄に来攻した米軍に対し、まさに総攻撃をかけようとしているところであった。「大和」は、口径46センチの巨砲九門を搭載、世界最大最強の戦艦として誕生しながら、日本海軍自らが真珠湾攻撃(昭和16年12月8日。停泊中の戦艦を航空攻撃で撃沈)、それに続くマレー沖海戦(同年12月10日、航行中の戦艦を世界で初めて航空攻撃のみで撃沈)などで航空戦の時代を切り拓いたこともあって、本来の威力を発揮する機会のないまま生きながらえていた。

基準排水量6万4000トン、公試排水量6万9000トン、全長263メートル、全幅38.9メートル。主要部は厚い装甲に守られ、「不沈艦」とも称されたが、姉妹艦「武蔵」は、すでに昭和19(1944)年10月24日、フィリピンで米軍機の攻撃を受け、撃沈されている。

清水芳人(しみずよしと)は、当時、海軍少佐で「大和」第十分隊長(戦闘配置は副砲長。六門の15.5センチ副砲を指揮する)を務めていた。急いで艦長・有賀幸作(あるがこうさく)大佐、副長・能村次郎(のむらじろう)大佐の待つ前甲板に駆けつけた清水に、副長は黙って、手にしていた電報用紙を差し出した。そこには、次のように書かれていた。

〈1YB(大和2sd)ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ〉(連合艦隊電令作第六〇三號 昭和二十年四月五日一三五九)

(1YBは第一遊撃部隊、2sdは第二水雷戦隊を意味する。一三五九は午後1時59分)

「これまでも出撃するときは生還を期していなかったし、半ば予想していたことではありましたが、電文にある『特攻』の2文字が、異様なまでに目に焼きつきました。同じ特攻でも、飛行機のほうは建前として『志願』ということになっていましたが、この海上特攻は否応なしの至上命令、『大和』だけでも3000名以上の乗組員がいるわけです。しかしどういうものか悲壮な気分にもなれず、祖国の安危急迫のとき、一億特攻のさきがけとして『大和』と運命をともにするのは本望、なにも思い残すことはない、と覚悟を決めました」