当時の若者に共通した思い

6月17日、鹿児島市がB ─29の空襲に遭い、市街のほとんどが灰燼(かいじん)に帰した。戦闘三〇三の搭乗員たちも、城山に掘られた横穴式の防空壕で寝泊まりするようになった。

「ある日、綿のように疲れて、同期生の杉林泰作中尉と2人、ライフジャケットを肩にかついであぜ道を防空壕に向かっていると、向こうから鍬(くわ)を肩にかついだお婆さんと幼稚園児ぐらいの女の子が手をつないで歩いてきました。思わず『ご苦労さま』と声をかけると、2人はお辞儀をして、『兵隊さんも大変ですね』と言ってすれ違っていきました。

そのとき、何か胸にこみ上げてくるものがあって、思わず杉林に、『おい、俺はいま、あのお婆さんと女の子のためなら死んでも悔いはないと思ったよ』と声をかけると、彼も、『貴様もそう思ったか。俺もいま、全く同じことを思っていたよ』と。

土方敏夫中尉(当時)。零戦の操縦席で(写真:『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』より)

この緑豊かな国土、か弱いお婆さんやかわいい子供たちを守るのは、俺たちをおいてほかに誰がいるのか、というのが、当時の若者に共通した思いだったんです。

これは、本職の軍人も、私たちのようにペンを操縦桿に持ち替えた臨時雇いの予備士官も、変わるところはありませんでした。杉林中尉はその後、7月25日、大分県宇佐上空の邀撃戦で戦死しました」

特攻隊こそ出さなかったが、戦闘三〇三飛行隊は、89名の搭乗員のうち38名が沖縄戦から終戦までの間に戦死、戦死率は43パーセントにのぼっている。これは、たとえば特攻専門部隊として編成された第二〇五海軍航空隊(103名中特攻戦死者35名)よりも高い数字だった。