『おい、俺はいま、あのお婆さんと女の子のためなら死んでも悔いはないと思ったよ』(写真提供:Photo AC)
1945年8月15日に太平洋戦争が終結してから78年目を迎えた現在、軍人として戦争を経験した人の数も少なくなりました。そのようななか、28年前から、戦争体験者にインタビューを続け、語り継いでいるのは、報道写真家の神立尚紀さん。今回は、神立さんが行った多くの取材のなかから、土方敏夫海軍中尉の証言についてのお話を紹介します。

沖縄の空で戦ったのは、プロの軍人ばかりではなかった

「ジャズ恋し 早く平和が 来ればよい」
昭和20(1945)年、土方敏夫海軍中尉の証言

太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島、次いで4月1日には沖縄本島に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。地上戦ばかりがクローズアップされがちな沖縄戦だが、航空部隊も、押し寄せる敵の大軍に一矢を報いようと必死の戦いを繰り広げ、多くの若い命が失われた。

沖縄の空で戦ったのは、海軍兵学校や飛行予科練習生(予科練)を卒業した、いわゆるプロの軍人ばかりではない。大学や専門学校(旧制)を卒業、あるいは在学中に志願、あるいは召集されて軍に入った、学徒出身の搭乗員も次々と最前線に投入された。

東京の豊島師範学校を卒業、小学校教員を経て海軍飛行専修予備学生13期生を志願した、元山(げんざん)海軍航空隊の土方敏夫(ひじかたとしお)中尉(のち大尉)も、その一人である。

「朝鮮半島の元山基地にいた私たちにも、鹿児島県の笠之原基地に進出が命ぜられました。まずは分隊長・山河登(やまかわのぼる)大尉が主力を率いて進出し、4月8日、私が第2陣の零戦12機を率いて笠之原に到着しました。そこで山河分隊長の戦死を知らされ、愕然としました。

山河大尉は4月7日、激しい空戦を終えて帰投する途中、エンジンオイルが漏れて海上に不時着水、その後の消息はわからないと。空戦の神様のような人が戦死するとは、運命というか、人の命の儚(はかな)さを思い知らされたような気持ちで、涙がとめどもなく溢れました」

土方は翌4月9日の邀撃戦を皮切りに、沖縄をめぐる激戦に明け暮れることとなる。