ジャズ恋し はやく平和が 来ればよい
土方が、私の取材ノートに残した言葉より─。
「戦闘三〇三飛行隊が、鹿児島基地で沖縄戦に出撃したり、邀撃戦に明け暮れていた頃のことです。搭乗員は、鹿児島市内の涙橋近くの民家に分宿していました。私たち予備学生は一軒の家にまとまって分宿していました。夜になるとブリッジをしたり、お酒を飲んで、たわいもない話に興じたりしていました。
明日をも知れぬ命と知りつつも、それを顔に出すことはなく、明るく振る舞うことによって、自分自身を抑制していたのかも知れません。これまでに、習った戦術にしても戦略にしても勝つという結論は出てきません。それで議論にはならぬことはしませんでした。国家の捨て石になればそれで本望、あるいは講和の条件が少しでも良くなるのなら、喜んで死のう。そんな気持ちだったと思います。
ある晩のことです。誰かが『おい、神様がもしも24時間フリーな時間をくれたら、貴様たちは何をしたいか』と言いました。いろいろな意見が出ました。
恋人に会いたい、母親に会いたい、甘いものを腹いっぱい喰いたい、などなど。
そのなかでいちばん、みんなが賛同したのは、『書斎で、コーヒーを飲みながら、ゆっくり本が読みたい』でした。
鹿屋基地では、特攻隊の隊員の宿舎は小学校でした。その教室の黒板に、特攻隊員が出撃のときに書いていった川柳が残っていました。『雲流るる果てに』に、これが掲載されています。そのなかで、同期生の次の句を読むたびに、私はいつも目頭が熱くなります。
〈ジャズ恋し はやく平和が 来ればよい〉
いまもよく空を見上げます。そして、零戦で飛行機雲を曳きながら飛んだ日のことを思い出します。
大空に舞う零戦は、美しいの一言で事足ります。美しいものは、すぐれたものです。
その美しい零戦とともに全力で戦った日々は、何ものにも代えられない私たちの青春そのものでした。抜けるような青い空に一筋の飛行機雲を引きながら飛んでいる飛行機を見ると、何となく自分の一生を見ているような気がするのです」
こんな、ペンを操縦桿に持ち替えて、誇り高く戦った学徒出身の若者たちがいた。そして彼らのうち、戦争を生き抜いた者の多くは、それぞれに学んだ学問を生かして、あらゆる分野で戦後日本の礎となった。
戦争と戦後日本を振り返る上で、このことはけっして忘れたくないものである。
※本稿は、『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(講談社ビーシー)の一部を再編集したものです。
『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(著:神立尚紀/講談社ビーシー)
「戦争は壮大なゲームだと思わないかね」――終戦の直前、そううそぶいた高級参謀の言葉に、歴戦の飛行隊長は思わず拳銃を握りしめて激怒した。
「私はね、前の晩寝るまで『引き返せ』の命令があると思っていました」ーー艦上攻撃機搭乗員だった大淵大尉が真珠湾攻撃を振り返って。
「『思ヒ付キ』作戦ハ精鋭部隊ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ」ーー戦艦大和水上特攻の数少ない生存者・清水芳人少佐が、戦艦大和戦闘詳報に記した言葉。
「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」――大西中将の副官だった門司親徳主計少佐の言葉。