これはとてつもなく歴史的な書籍ではないか
エッセイとはなんなのか。そもそもいつごろできたのか。随筆とエッセイのちがいとはなにか、そしてコラムとエッセイではなにがちがうのか。エッセイには事実しか書いてはいけないのか、私小説ではないのか。そして人はなぜエッセイを書くのか。
エッセイはさまざまな媒体で必ずと言っていいほど掲載されているのに、だれも明確に定義できていない。あるいは個人的に定義していても、それが読者や編集者にまで共有されていない、曖昧模糊とした文章だ。
本来であれば文学研究者がこれらの疑問に応えるべく、歴史的に、そして質的にきちんと分類しなくてはいけないのだが、研究っていい加減なもので、文学というと小説とか古文のことだと考えている節がある。エッセイの問題は「周辺の文学」として扱って、ずっと棚上げして研究の俎上にあげてこなかったのだ。これはひとえに文学研究の怠慢だろう。
そんなところに稀代のエッセイスト酒井順子さんが本書をなした。いつものように軽い気持ちで手に取って、どんな発見をさせてくれるんだろうとワクワクし、もちろん軽い気持ちで読み進められるのだが、「こっ、これはとてつもなく歴史的な書籍ではないか」と気持ちがザワザワしはじめる。こんなに読みやすい文章で、実は研究書ばりの内容を備えているではないか。興味深いことしか書いていない!
「私の頭に浮かんでくるのは、家の中における、名前のつけられない部屋のことです。リビング、ダイニング、風呂、トイレといった使われ方がはっきりとしている部屋でなく、何にでも使用できる部屋が、家の中にはあります。(中略)しようと思えば何でもできてしまう部屋のような個性を、エッセイは持っている」。
過去のエッセイをトップエッセイストが解体するエッセイ。興奮して読み終えた。