前の会社も良い会社でさ。ずっとそこで働いていても良かったんだけど、まぁ何年も働いて、一人でやるのが性に合っているんじゃないかって思ってしまってさ。
 かといって、一人で仕事を取ってこれるかって考えたら、それもなかなか難しい。狭い業界だからさ。
 何の実績もないデザイナーが独立しましたって言ったって仕事が舞い込んでくるわけじゃない。
 ただ、離れがあったからさ。
 家賃、タダじゃないか。光熱費さえ払えれば仕事はできる。おまけに独身だから一人だけ食べていけるお金を稼げばいい。
 つまり、それこそアルバイトの高校生が一ヶ月稼ぐぐらいの仕事を請け負えれば、何とかなるんじゃないかってさ。
 いや、軽い気持ちでもないんだ。
 実は、二年前にさ、ある新人文学賞の最終候補に残ってさ。
 小説ね。
 書いていたっていうか、書いたんだ。仕事の合間に。グラフィックばっかりやっているのに飽きたような瞬間があってさ。
 そう、仕事に慣れて、その仕事で生活することにも慣れ過ぎたような、エアポケットみたいな気持ちのときにね。
 書き出したんだ。
 全然違うものが書けた。そりゃそうだよな。高校生のガキが書いた拙い小説と比べる方がおかしいけど、自分でも納得できるような物語が書けてさ。
 それを応募したら、最終選考に残った。
 新人賞の最終選考っていうのは、たくさんの応募作品の中から下読みを経て、最終的にいくつか残ったものを編集部がまた選んで、この中からならどれが受賞してもいいと思った作品ってことなんだ。
 それを、審査員の作家たちが読んで、最終的にどれかを選ぶ。
 大体は、四作とかそれぐらいの中からね。
 そう、その四作ぐらいに残ったんだよ。
 つまり、小説家としてデビューできる作品が書けるってことだ。