まりあちゃんのひとことで、父の気持ちは翻った
「まりあちゃん」は、父が名付けたケアマネージャーのニックネームだ。彼女と同じ名字の歌手が父はお気に入りで、それを拝借して呼ぶことにしたという。「まりあちゃん」と呼ばれると、彼女は笑顔で対応してくれる。
まりあちゃんが到着する前に、温かいお湯で絞ったタオルで、私は父の顔、首筋、指を1本ずつ拭き、あごと鼻の下の髭を剃ってあげた。すると父は気持ちよさそうに、再びウトウトし始めた。
玄関の呼び鈴が鳴る。ドアを開けるとまりあちゃんが立っていた。
「ごめんなさい。心配で早く来てしまいました」
私はお礼を言ってから、玄関で待っていてくれるようにお願いし、寝室にいる父を起こした。
「パパ、まりあちゃんが来たよ。頑張って着替えて、居間に行こうね」
父は寝たまま天井を見て、何かを考えているようだ。
「着替えるのは面倒だ。まりあちゃんに、こっちに来てもらってくれ」
玄関で待っているまりあちゃんを、寝室に案内すると、彼女は寝ている父の姿に驚いたらしい。
「私が担当になってから、一度もパジャマを着ていたことはないですよ。いつもちゃんと着替えて待っていてくれたでしょう? 大丈夫ですか?」
父は、ゆるゆると起き上がろうとしながら、惚けた口調で言った。
「いつも居間で待っていたよな…‥着替えたら、まりあちゃんと久美子と3人で、そばを食べに行かないか?」
まりあちゃんは、父をベッドサイドに腰掛けさせながら言った。
「あら、私も行きたいけれど、仕事の決まりがあってね、ご一緒に外食はできないんですよ。でも、食欲が出たなら良かったわ。久美子さんと出かけてきてください。お着替えを手伝いますよ」
父は、まりあちゃんにすっかり甘えてしまっている。
「着替えさせてくれ」
手早く父のパジャマのボタンを外したまりあちゃんは、悲鳴を上げた。
「どうしたんですか! こんなに痩せてしまって…‥このまま放っておいたら、衰弱して起き上がれなくなりますよ!」
父は自分が痩せたことに気づいていないらしく、「そうかな…‥」と言うだけだ。
まりあちゃんは、父に肌着を着せながら言った。
「私が病院を探しますから、入院して、もう一度元気に食べられるようになりましょう」
4日前に入院をさせてもらいたくて行った病院で、父は「私は歩けるし、元気なんです。絶対に入院しません」と言ったシーンが、私の頭に蘇る。
ケアマネージャーが受け入れ先を探しても、きっとまた父は、入院を拒否するに違いないと思っていた。ところが意外なことに、父は柔和な表情で答えた。
「そうか、まりあちゃんに言われたら断れないな。診てくれる病院が見つかったら、入院するよ」
父は言葉にしないだけで、たぶん自分が弱ってきていることを自覚し始めたのだと思う。父の決意に気づき、私は胸が苦しくなった。