イケアに着いて、夫はいつも、スウェーデン風ミートボールを食べるのを楽しみにしてたな、あたしは小エビのオープンサンドだったななんてことも思い出し、レジで「メンバーシップ持ってるか」と聞かれて、「前は持ってたけど、今はない、5年前に夫が死んで国を出て、ここに来るのもひさしぶり」なんて答えると、レジの人が「おー、アイムソーリー、私の友人もこないだ夫を亡くした」と語り、後ろに何人も待ってたけど、レジの人は気にせず、後ろの人たちも気にしない。このアメリカ人の、通りすがりの赤の他人との瞬間的な距離感の異様な近さ。これはすっかり忘れていた。

「メールアドレスでも携帯ナンバーでもメンバーシップの確認ができるよ」と言われて、夫のメールアドレスを思い出そうとしたが、思い出せなかった。

うわあ、夫のアドレスも携帯のナンバーも思い出せなかったのだ。

昔は覚えていたのに、思い出せなかった。おお、ああ、明治(って言うか、何かそういうもの)は遠くなりにけりと考えながら、フロアランプ3個や椅子3脚、枕やシーツ等々、車に積み込んで、あたしはまた走り出した。とろとろ走るのは性に合わない、ぐぐっとアクセルを踏み込むと、さびついた老車がギギギギとうめきながら加速して、時速80マイル(130キロ弱)でしばらく走っているうちに、思い出したのだ、夫のメールアドレス。携帯ナンバーはついに思い出せなかった。

近所のラグーン

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米国人の夫の看取り、20余年住んだカリフォルニアから熊本に拠点を移したあたしの新たな生活が始まった。

週1回上京し大学で教える日々は多忙を極め、愛用するのはコンビニとサイゼリヤ。自宅には愛犬と植物の鉢植え多数。そこへ猫二匹までもが加わって……。襲い来るのは台風にコロナ。老いゆく体は悲鳴をあげる。一人の暮らしの自由と寂寥、60代もいよいよ半ばの体感を、小気味よく直截に書き記す、これぞ女たちのための〈言葉の道しるべ〉。