日本人の表現は特殊
ほんとうに日本人の表現というのは特殊だと思う。私の夫は、家を出て行く時、「じゃあね、またね」と笑う。
私だけが長い旅行に出る時、よく成田まで送ってきてくれるが、今日からの束の間の解放感を一人祝して、はやばやと飛行場でビールなど飲んでにこにこして家に帰る、という。
外国で「妻がいなくなると思うと嬉しくて、祝杯を上げた」などと言うと、万一飛行機が落ちた場合には疑われて保険金が下りないし、それだけで離婚の理由になるのではなかろうか。
さて離婚した私の友人だが、彼女も私と似たような年だから、同じくらい年をとりはしたかもしれない。しかし今でも彼女は「優雅」な身のこなしである。
喋(しゃべ)り方も、ものの食べ方も、服装の趣味も、すべて気品がある。夫が離れていくどころか、ますます年とって静かに輝いている妻を、大事に思うだろうと思うような人である。
すると、やはり、彼女の夫も、異文化を持つ妻との生活に、ただひたすら疲れたのかもしれない。
※本稿は、『今日も、私は生きている。: 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。
『今日も、私は生きている。: 世界を巡って気づいた生きること、死ぬことの意味』(著:曽野綾子/ポプラ社)
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