「人生の苦難は、視点を変えるきっかけになりうるし、視点が変われば楽しめるのです」

家族で気軽に死について語り合おう

家族の死が悲しいのは、「愛着」があるからで、それも自然なこと。そういった悲しみや負の感情を手放すには、死をタブー視せず、日頃から自分の死生観について家族で気軽に話し合うとよいと思います。

日本人は比較的、そういう話題を避けがちですが、私は臆面なく正面切って家族と話すんです。私の葬儀の段取りとか、「葬儀はおもしろおかしくやってね」とか。(笑)「死んだら生まれ変わりがあるかどうか」など、意見を交わし合うのもいいと思います。仮に生まれ変わらなくても、遺伝子を含む生命のリレーが未来につながる、などと想像し合ったり。

世界中のほとんどの宗教が、来世、つまり、死んだ先に世界がある――「死んだら終わり、ではない」としています。信仰は心の平安に作用するので、死の不安を解消できる。

また、日本には、四季を織りなす風土ならではの死生観や、『古事記』『日本書紀』に描かれ、神話として受け継がれてきた、特有の生と死への思想もあります。自然や八百万の神々を祀ったり、神社仏閣で祈ったりする行為の役割も大きい。いっぽうで無宗教の人でも、それぞれのやり方で心の平穏を得ることは可能です。

「老い」も死へ向かう過程ですから、歳をとることを嫌なものと感じている人もいるでしょう。私が尊敬する宗教哲学者・上田閑照(かんしょう)さんの言葉に、「誰のなかにも〈表の子ども〉と〈裏の子ども〉がいる。〈表の子ども〉は歳をとって衰えていくが、〈裏の子ども〉は歳をとらない」というものがあります。

私も72歳、表は白髪になり、皺が増え、抗がん剤の影響で毛も抜けましたが、どんなに歳をとってもまったく変わらないもの――私の場合は詩をつくる喜びが、自分のなかに確かにある。人はみな、そういうものを必ず持っているのです。

大切なのは、自分のなかの子どものままの自分(裏の子ども)をちゃんと見つめているか。〈裏の子ども〉が生き生きと活動し始めると、それこそが等身大の自分。〈裏の子ども〉が生き生きしていると、老いても心はみずみずしくお茶目でいられます。

人生の苦難は、視点を変えるきっかけになりうるし、視点が変われば楽しめるのです。