「当時の私に、死や病を恐れる気持ちはありませんでした。ただ目の前のすべてを見ていただけです。」(撮影:藤澤靖子)
死を意識せざるをえなくなったとき、人はその衝撃とどう向き合えばよいのだろうか。宗教哲学者である鎌田東二さんは、今年2月、大腸がんと告知された。悔いなく生きるための方策や死生観について、体験的アドバイスを聞いた(構成=菊池亜希子 撮影=藤澤靖子)

根源的な痛みをどうケアするか

まず、私が研究してきた「グリーフケア」についてお話ししましょう。人は生きていると、ときにどうしようもない喪失感に搦(から)めとられることがあります。家族や愛する人、仕事やモノ、生きがいなど大切な何かを失ったことで溢れ出る苦痛をグリーフ(悲嘆)といい、そうした人間の根源的な痛みに向き合う手助けをグリーフケアと呼んでいます。

たとえば、愛する人の死。子どもを失った親御さんは悲嘆のあまり、生きていく意味すら見失ってしまう。自然の摂理に従い、親の死ならばまだ受け入れられても、子どもの死は理不尽に感じ、広がるのは圧倒的な喪失感だけ。ただ、そういった苦痛をケアすることができるのかというと、できないのです。

では、どうしたらよいのか。「doing(ケアすること)」はできなくても、「being(そこにいること)」はできる。日本語にすると、「寄り添う」になりますが、その一言で表せるほど簡単なことではありません。何かをするのでなく、ただそばにいて痛みや苦しみを受け止める。「beingwith」のイメージです。

グリーフケアは、英国の看護師であり医師のシシリー・ソンダースやアメリカの精神科医キューブラー・ロスらによって提唱され、1960年代に病院の臨床現場から始まりました。治療や看取りには、医療行為だけでなく、悲しみや精神的苦痛に特化したケアが不可欠との考え方が広まったのです。

私がグリーフケアに関わるようになった素地は、生い立ちにあるかもしれません。幼い頃、私は実家の離れに祖父と祖母と3人で暮らしていました。祖父は私が小学生になる前に脳溢血で倒れ、半身不随の寝たきり状態。祖母は乳がんの治療を拒否していたので、乳房が少しずつがんに侵されていくのです。母が毎日、黒ずんでえぐれていく祖母の乳房を消毒しにきていました。

祖父は脳溢血の後遺症で言葉を話すことができなかったけれど、目を合わせると何となくわかるんです。あ、腰をさすってほしいんだな、と。で、さすってあげると、とても気持ちよさそうな表情をする。

当時の私に、死や病を恐れる気持ちはありませんでした。ただ目の前のすべてを見ていただけです。後に、グリーフケアを理論的、臨床的に学ぶわけですが、その根幹は、人が死へ向かう一瞬一瞬をつぶさに見てきた子ども時代にあると思います。