死の恐怖を和らげる力
死は、納得できるものではない。だからこそ死を意識せざるをえなくなったとき、もし隣で手を握っていてくれる人がいたら、その安心感は最期まで力になるでしょう。
しかし、いまの日本は多死社会であり、無縁社会。おひとりさまも増えて、死の間際に手を握ってくれる人がいない状況が増えてきました。私は、日本臨床宗教師会会長も務めていますが、家族のいない人も、他人に看取られて安心して死ねる社会にしていく必要があると考えています。「同行二人」(お遍路さんに弘法大師が寄り添っている関係)の意識で、これからは社会や地域で看取る体制が重要になると思います。
「臨床宗教師」の活動は、11年、東日本大震災で被災して亡くなった方々の供養と遺族ケアを目的に、東北大学で始まりました。布教や伝道を目的とするのではなく、遺族の心に寄り添い、ひたすら声を聴きます。宗教宗派を超えて活動していて、現在、全国に200人以上。被災地や医療施設、福祉施設などで活動しています。
グリーフケアの観点からいうと、命の最終段階に必要なのは、医療ではなく、「介護、看護、そして宗教的な関わり」の3つ。ここでいう宗教とは、不安を取り去り、心を平穏へ導く方法と考えてください。死に向かう最後の瞬間に、執着やわだかまりを誰かに話すことができたら、ふっとラクになれる。
自分の話をちゃんと聞いてくれる存在がいたら、ただそれだけで安心できることもあります。ケアする側は、相手から出てくる言葉を待って、ただ受け止める。人と人の関係のなかでだけ、ほどけていくものが確かにあるのです。
かくいう私も、死がまったく怖くないわけではありません。死の恐怖の正体は、自分が消えること、つまり自我が消滅することへの恐れだと思います。
恐怖や不安は消さなくていい。死はすべての人に必ず訪れますし、決して特別なことではありません。古今東西の古典にもあるように、人は生死の意味を問い続けています。自分なりに問い続け、深く考えることで、見えてくるものもあるはず。命には、そんな力も秘められているのです。
私にとって、死を受け入れるということは、「お任せする」という感覚。言い換えると、自分の命に感謝して、手放すイメージです。私の場合は神仏習合ですが、お任せする先は、仏でも神でも自然でも大いなる何かでもいい。この先どれくらい生きられるかわかりませんが、私はすべてのことに「ありがとう」と感謝の言葉を述べて旅立ちたいと思っています。