左手で貧乏、右手で学問と戦った

このように植物が好きですから、私が明治二六年に大学に招かれて民間から入った後ひどく貧乏したときでもこの植物だけは勇猛にその研究を続けてきました。そのときはとても給料が少なく生活費、たくさんの子供(十三人出来)の教育費などで借金ができ、ときどき執達吏に見舞われましたが、私はいっこうに気にせず押えるだけは自由に押えていけと、その傍の机上で植物の記事などを書いていました。

『随筆草木志』(著:牧野 富太郎/中公文庫)

こんな事の昔はきょうの物語りとなったけれども、今だって私の給料は私の生活費には断然不足していますけれど、老身を提げての私の不断のかせぎによってこれを補い、まず前日のようなミジメナことはなく、辛うじてその間を抜けてはおります。

私は経済上あまり恵まれぬこんな境遇におりましてもあえて天をも怨みません、また人をもとがめません。これはいわゆる天命で、私はこんな因果な生まれであると観念している次第です。

私は来る年も来る年も、左の手では貧乏と戦い右の手では学問と戦いました。その際そんなに貧乏していても、一時もその学問と離れなく、またそう気を腐らかさずに研究を続けておれたのは植物がとても好きであったからです。

気のクシャクシャした時でも、これに対するともう何もかも忘れています。こんなことで私の健康も維持せられしたがって勇気も出たもんですから、その永い難局が切り抜けて来られたでしょう。

そのうえ私は少しノンキな生まれですからいっこう平気で、とても神経衰弱なんかにはならないのです。私は幼い時から今でも酒と煙草とをのみませんので、したがってそんな物で気をまぎらすなんていうことはありませんでした。ある新聞に私を酒好きのように書いてありましたがそれはまったく誤りです。