リクルートの転機は84年

江副とリクルートの転機は、84年にあったと田原総一朗が指摘する。NTT(旧電電公社)の民営化直前である。第二電電(のちのKDDI)が、京セラの稲盛和夫を中心に立ち上がる。

立ち上げ時の大株主の構成を見ると、京セラを筆頭に三菱商事、ソニー、ウシオ電機、セコムらが名を連ねる。江副はここに加わるつもりだったが稲盛の意思によって拒絶された。

田原は社交的でなかった江副が財界人の輪にうまくなじめなかったことが大きいという。財閥同士の結びつきや、学閥コネクションから江副は浮いていたのだ。リクルートの過剰接待は、この社交下手の克服、またはリカバリーしようと生まれたものだった。

もうひとつ、当時の財界はリクルートを虚業と軽視した風潮も影響した。リクルートのビジネスは企業の出したい情報を、企業から広告料を取って発行する。メディアは、原則無料。

企業が出したい広告がコンテンツ。従来のメディア・広告モデルとはまるで逆のスタイルだった。この江副の生み出したビジネスモデルは、当時の財界の常識と相容れなかったのだろう。

ものづくりを中心に置き、顧客第一、信頼重視を基本とするのが従来の財界のマナーだとすると、リクルートは、情報を売る産業で、データ重視、大量配布がモットー。その姿勢が“虚業”と判断されたのが江副の不幸であり、日本で情報、通信分野の発展にとって災いしただろう。

稲盛に拒絶された江副は、NTTの「回線リセール事業」の下請けに邁進する。ゴリ押しの営業スタイルで電話の回線を売ることにやっきとなった。第二電電、稲盛への反発があったのだろう。このビジネスに失敗した江副の焦りがリクルート事件に向かわせた。

リクルート事件を巡る騒動が注目を集めていた1988年は、竹下政権が消費税導入を目指し法案化を進めていた時期と重なる。法案は、年末の12月30日に施行され、3か月後の89年4月1日に導入された。

すべての商品の販売、サービスの提供に3パーセントの税金が課されるようになったのだ。政界への不信と消費税導入のごり押しをした竹下政権の支持率は、低迷。その年の6月に総辞職に追い込まれる。

※本稿は、『1973年に生まれて: 団塊ジュニア世代の半世紀』(東京書籍)の一部を再編集したものです。


1973年に生まれて: 団塊ジュニア世代の半世紀』(著:速水健朗/東京書籍)

ロスジェネ、超氷河期、お荷物と言われ続けた団塊ジュニア世代のど真ん中ゾーンも、ついに天命を知る50代に突入。

そんな世代が生きてきた1970年代から2020年代にわたる、日本社会、メディア、生活の変遷を、あるいはこの時代に何が生まれ、何が失われたのか――を、73年生まれの著者が、圧巻の構想力と詳細なディテールで描くノンフィクション年代記。