(イラスト:大野博美)

今年の12月8日で太平洋戦争が始まった1941年から82年が経ちます。戦争を知る世代が高齢化し、生々しい戦火の記憶が薄れつつある日本。一方、世界に目を向ければ、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとイスラム組織ハマスの軍事衝突のほか、紛争が長期化している国もあります。戦争がもたらすものは、どれほど悲惨なものか。そこから立ち上がるための道のりとは。昭和6年生まれの斎藤ヒサさんは、当時子どもながら戦禍を乗り越えてきました。「死んだほうがマシ」と思った戦時下の学徒動員。がむしゃらに働いた高度成長期。そして旅行三昧の定年後。今は仲間たちと電話で近況を語り合う日々に。

地獄の「松根掘り」に悲鳴を上げた戦時下

「長生きは、するもんでね」

電話に出たとたんに、この言葉。私は驚いたものの、「本当、私ももうたくさん。同感」と言ってしまいました。

令和4年、10月の末。冬の始まりとは思えない暖かい朝だったので、起きて庭に出ていたら、電話の音。「こんな早くにだれだろう」と走って居間に入り電話を取ると、女学校時代の同級生、Hさんです。

年を重ねてひとり暮らしが難しくなり、雪が降る前の11月から、高齢者施設に入所することにしたという電話でした。

昭和6年、満洲事変勃発の年に生まれた私たちは、今年でもう92歳。昭和の一番大変な時代だった、戦中戦後の生き残り。出征はしなかったけれど、戦友です。

「君は鍬とれ、我は鎚」と、学徒動員で働いた日々。「欲しがりません勝つまでは」で、我慢には慣れていましたが、空腹はつらいものでした。