女学校を出るとがむしゃらに働きました。当時の日本は貧しく、自家用車はおろか自転車だって持っているのは少数。ほとんどの人の通勤手段は、徒歩と昔ながらの汽車ポッポです。

私は毎朝4時に起き、5時に家を出て約1時間かけて歩いて駅に行き、汽車で職場まで通いました。若かったからできたのでしょうが、90歳過ぎた今もシャンと歩けているのはそのおかげ。

上品な今の新幹線などからは考えられないことですが、汽車の中はいつも大笑いで賑やかでした。時間がなかったと上着のボタンをかけず、下着が丸見えで乗ってくる人、朝食をとる暇がなかったと、ご飯を入れた丼を片手に乗りこむ人。今思うと、汽車通勤は、楽しい思い出ばかりでした。

日本人がみんなで必死に努力したおかげで、日本は復興を遂げました。焦土と化していた街には、次々に新しい建物が。美しく生まれ変わり、昭和39年にはオリンピックが開催できるまでになりました。

後編につづく


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