「手術はうまくいったのですが、脳の血管の別の箇所で脳梗塞を発症。左脳の4分の1が壊死し、言語と右半身の機能に障害が残りました。」(撮影:藤澤靖子)
昭和の終わりから平成にかけて人気を集め、数々の著作を世に出したコラムニストの清水ちなみさん。今年、17年ぶりに新作を刊行するまでの間、長いリハビリ生活を送っていました(構成=村瀬素子 撮影=藤澤靖子)

話せる言葉は「お母さん」と「わかんない」

まるで雷に打たれたような激しい頭痛に襲われ、大学病院の脳神経外科で手術を受けたのは、2009年12月、46歳の時です。病名は、くも膜下出血。手術はうまくいったのですが、脳の血管の別の箇所で脳梗塞を発症。左脳の4分の1が壊死し、言語と右半身の機能に障害が残りました。

手術後、集中治療室(ICU)で目を覚ました時の記憶は曖昧ですが、自分の名前も、数字も、時計も、常識もわからない。傍にいる夫の顔は覚えているけれど、名前が思い出せない。

何か言おうとしても、口から出るのはなぜか「お母さん」と「わかんない」の2語だけ。いわゆる「失語症」の症状です。少し前までは2人の子どもを育てながら大量の原稿を書いていたのに、ほとんど赤ちゃんのような状態になってしまいました。

2週間後に一般病棟に移りましたが、失語症だけでなく、右目の視野が大きく欠け、右足をうまく動かせず、右手の指を曲げることも難しく握力はゼロ。当時の心境は「あれま!」です。そして、「あんな生活をしていたら、無理ないなー」とも思いました。

大学を卒業して就職した私は、会社の仕事の傍ら、全国の働く女性たちによる「OL委員会」を立ち上げ、週刊誌で「おじさん改造講座」を連載し始めました。その後、フリーのコラムニストになり、多い時には月40本もの締め切りを抱えて寝る暇もありません。お酒もよく飲んだ(笑)。

30代で子どもを産んでからも仕事はセーブせず、ますます多忙に。そりゃあ体は悲鳴をあげますよね。

予兆もありました。2人目の子を妊娠した38歳あたりから血圧が高くなり、上が200を超えるほどに。くも膜下出血を発症する2年前には、車の運転中に突然視界がぼやけて危なかったことも。

その時はMRI検査で異常なしと診断されたものの、「通院が必要」と医者に忠告されました。にもかかわらず、病院嫌い、薬嫌いだった私は、2、3回通ってやめてしまい、降圧剤も飲みませんでした。そうやって、体のサインを無視し続けていたのです。