「ひかりさん、ごめん。水ちょうだい。勝手口閉まってた」

「えっ。もしかして誰か来てた?」

「うん、アヤ坊。店に入れないからこの暑い中、外で膝抱えてた」

「あら大変!」

「熱中症になってねぇか。ほら、水!」

「タクちゃん」までが驚き慌て、コップに入った水を差し出す。求がそれを受け取って、明日美にはもはや目もくれず、暖簾の向こうへと急ぐ。

 なに? 勝手口? アヤ坊? どういうこと?

 たくさんの疑問符が、頭の中を駆け巡る。求に掴まれた二の腕が、いつまでもじぃぃんと痺れていた。

 

 階段下に設けられた席に着き、小学校低学年くらいの男の子が焼き鳥丼を食べている。むさぼると言ってもいい勢いで、必死に米を掻き込んでいる。

 明日美は階段の一番下の段に腰掛けて、その様子をぼんやり見ていた。求が休憩を終えた後、ひかりに「ちょっと休んで」と言われてここへ来た。事情を聞きたい明日美に説明する余裕は誰にもなく、疑問は胸にくすぶったままだった。

 この子がアヤ坊こと、アヤトくん。分かったのは彼が来るかもしれないから、勝手口の鍵は閉めてはいけないということくらいだ。

 いったい、どこの子なのだろう。こんな時間に食事をしては、晩ご飯が食べられなくなってしまう。彼の親は文句を言ってこないのかと、気になった。

 それにしても、凄まじい食欲だ。知らないおばさんに見られていても、脇目も振らずに食べ続ける。その割にTシャツから覗く腕は、骨の形が分かるほどに細い。

 焼き鳥丼を平らげてコップに残っていた水を飲み干し、アヤトは満足げに息をつく。それからはじめて明日美に気づいたようにこちらを窺い、目が合うとさっと顔を伏せた。

 今さら人見知りをしているようだ。髪は寝癖がついてボサボサだけど、愛らしい顔をしている。その口元に、米粒が貼りついている。

「ついてるよ」と教えてやると、アヤトは唇の左側に手をやった。

「違う、逆」

 慌てて払ったせいで、米粒がぽとりと机に落ちる。アヤトはそれをつまみ上げ、止める間もなく口に入れた。

「あっ!」

 汚いから駄目と、注意するべきだろうか。机に落ちたくらいなら、明日美も「三秒ルール」などと言って食べてしまうけど。この子の親とは、衛生観念が違うかもしれない。

 小さなことで悩んでいると、暖簾を分けて求がぬっと顔を出した。

「おっ、全部食べたか。偉いな」

 満面に笑みをたたえ、大きな手でアヤトの頭を撫でてやる。求には懐いているようで、アヤトも気持ちよさそうに目を細めた。なんだか猫みたいな子だ。

「どうする、宿題やってくか?」

 空になったコップにペットボトルの水を注ぎ、どんぶりを下げながら求が尋ねる。アヤトは「うん」と頷いて、使い込まれたリュックから算数ドリルを引っ張り出した。

 表紙に『3年2組 ひいらぎあやと』と、拙い字で名前が書かれている。見たところ学年はもう一つくらい下かと思っていたから、驚いた。アヤトは痩せているだけでなく、三年生にしては背も低い。

「ちょっとアンタ」

 去り際に、求がこちらを振り返る。笑顔はすでに引っ込められている。

「ホールはタクさんに任せるから、宿題見て丸つけしてやって」

「えっ、私が?」

「こいつの母ちゃん、そんなんしてる余裕ないから」

 それだけ言って、酔客たちの喧噪の中へと引き返してゆく。明日美はしばらく、店の手伝いを免除されるようだ。

 丸つけって、ただ宿題の答え合わせをすればいいだけ?

 よく分からない。だって明日美の可愛い息子は、就学前のたった四歳でこの世を去ってしまったから。

 アヤトはすでに鉛筆を握りしめ、問題を解きはじめている。小数の、足し算と引き算だ。この計算は、小学三年生で習うんだっけ。

 息子の晃斗(あきと)が生きていれば、こんなふうに宿題を見てやることもあっただろう。忙しいのにと文句を言いながら、その幸せに気づきもせずに。

 そういえばアキトとアヤト、名前も一文字違いだ。

 ふいに鼻の奥がつんと痛み、明日美は奥歯を噛みしめた。

 

 

坂井家のうめ様、カメラ目線(写真提供:坂井さん)

 

 

 

 

 

 

 

坂井希久子さんの小説連載「赤羽せんべろ まねき猫」一覧

 


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