脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

       〈六〉

 

 飲食業がこんなにも忙しないものだとは、思ってもみなかった。

 開店後の厨房はひかりと、調理補助の経験があるという求に任せ、明日美はホールを担当する。十二時を過ぎるととたんに客が押し寄せて、店内はたちまち満席になってしまった。ホッピーのケースを積み上げたテーブルまで、早くも総動員である。

「ねぇ、注文いい?」

「はい、のちほど伺いますので、少々お待ちください。あ、こちら、お待たせしました。レモンサワー、モツ煮込みと長芋千切りで、ええっと、ええーっと、えー……ちょうど六百円です」

 この店の会計は、料理やドリンクの提供と引き換えにその都度代金をもらう、キャッシュオンデリバリー方式。暗算が必要といっても簡単な足し算と引き算だが、値段を覚えていないため壁に貼られた短冊をいちいち確認する羽目になり、もたついてしまう。

「ん、ここから引いてって」

 慣れた客ははじめから、テーブルに千円札を出している。ここから注文分をもらっていけばいいわけだ。

「どうぞ四百円のお釣りです」

 紺色のエプロンのポケットから釣り銭を取り出し、千円札と引き換えに置く。その動作が終わらぬうちに、焦れた客から声が上がる。

「ちょっと、注文!」

「すみません、伺います」

 あっちこっちから呼び止められて、めまぐるしい。テーブルから次のテーブルに移るときも立ち飲みの客の間を縫うように歩かねばならず、パーソナルスペースもへったくれもない。酒が進むにつれて店内に充満する話し声が大きくなってゆき、注文が聞き取りづらいのもストレスになる。

「どうも、ごちそうさん」

「はい、ありがとうございました」

 長っ尻(ちり)の客もいればちょい飲みでサッと帰る客もおり、各テーブルの回転率はまちまちだ。日曜だからか若いカップルも飲みに来ており、物珍しげに店内を見回している。

「お待たせしました、わかめ酢です」

「頼んでないよ」

「えっ、失礼いたしました」

「おばさん、わかめ酢こっち」

「たいへん申し訳ございません。ええっと百三十、いや違う、百八十円です」

「要領悪いな。しっかりしてよ」

「申し訳ございません」

 伝票など切らないから、注文を受けたテーブルもしっかり覚えておかねばならない。カウンターの客はひかりや求に直接注文しているから、明日美が受け持っているのはホッピーケースのテーブルを含めてたったの五つ。情けないことに、それでも混乱してしまう。

「明日美さん、まぐろ刺しと鶏皮タレお願い」

「はい、ただいま!」

 ひかりに呼ばれ、出来上がった料理を取りに行く。この注文があったのは、一番奥のテーブルだ。大丈夫、今度こそ間違えない。

「ねぇ、ちょっと」

 二つの皿を手に身を翻そうとしたら、ひかりにエプロンの肩紐を引かれた。顔を寄せて、小声で囁きかけてくる。

「接客、そんな丁寧でなくていいから。あんまり下手に出ると、舐められるよ」

「えっ!」

 逆ならまだしも、まさか丁寧な接客を注意されることがあるとは思わなかった。

「笑顔もいらない。無愛想なくらいでいいよ」

 そんなことを言われても、明日美の頭にはコールセンターの接客マニュアルが叩き込まれている。お客様を前にして無愛想でいるほうが、かえって難しい。

 少しばかり頬を引き締めて、明日美は料理を運んでゆく。

「お待たせしました。まぐろ刺しと、鶏皮タレです」

「はっ、タレ? 頼んだのは塩だよ」

「でも『タレでよろしいですか』と伺ったら、お客様が『そう』と――」

「違う、塩って言ったんだよ」

「申し訳ございません。すぐ作り直させていただきます」

「いい、いい。タレも食うよ。それで、次こそ塩ね」

「ありがとうございます。はい、かしこまりました」