(撮影:新潮社)
厚生労働省が行った「令和4年 国民生活基礎調査」によると、悩みやストレスの原因として最も多く回答されたのは「自分の仕事」、次いで「収入、家計、借金等」だそうです。人生には数多くの「苦」があるなか、「生きているだけで大仕事。『生きることは素晴らしい』なんてことは言わない」と話すのは、恐山の禅僧・南直哉さん。今回は、南さんが説く、心の重荷を軽くする人生訓を自著『苦しくて切ないすべての人たちへ』より、一部お届けします。

「老師」はつらいよ

お坊さんに呼びかけるとき、どう言ったらいいのかというのは、一般の人には結構悩むところらしい。

「どう言えばいいんですか? 和尚さんでいいんですか?」

もちろんそれでよいのだが、いきなり見知らぬ僧侶に「和尚さん」と呼びかけてくる人は少ない。

呼ばれる方も当惑することは多い。私が住職する寺のある地域は、多宗派の檀家が多いところで、最初の頃ご近所から「御前(ごぜん)!」と呼ばれてびっくりした。寅さん映画じゃあるまいし。

「上人(しょうにん)さん」という呼称もあるが、禅宗では使わない。宗派共通で無難なのは「ご住職」という言い方だが、いささか堅い上に、住職でない僧侶には使えない。その点、「和尚さん」はOKだ。

適当な呼び方がどうしても思いつかない人からは、「先生」と言われることが多い。学校嫌いだった上、両親はじめ身内に教員がゴロゴロいた私に、極めて聞き心地のよくない響きなのは仕方のないところである。

住職にしか使えないのが難であるにしても、私は「方丈さん」と呼ばれることが好きだ。「方丈」は主に禅寺の住職がいる書斎・居室を意味する。私の檀家はそう呼んでくれる。一番ほっとする。

あと、禅宗でよく使う敬称に「老師」がある。同じ禅宗でも、臨済宗系では「老師」の使い方は厳格で、それこそ高徳有力な指導者クラスにしか使わないようである。必ずしも年齢ばかりの話ではなくて、それにふさわしい力量があれば、比較的若い僧侶にも使われることがある。

そこへ行くと、我が曹洞宗は少し緩めである。ある程度の歳になると、みんな「老師」付けで呼ばれ出す。私も40過ぎた辺りから若い者にそう呼ばれ始め、初めのうちは「この顔が老人に見えるか!」とキレていたが、さすがに齢60を過ぎては、是非もない。考えてみれば、私も修行僧のころ「老師」を乱発していた。

我が宗で要注意なのが「禅師(ぜんじ)」なる言い方である。坐禅をする宗派の指導者だから「禅師」と呼ぶのは当たり前と思うかもしれないが、少なくとも私たちの場合、大本山の貫首(かんしゅ)(即ち最高指導者)か、貫首経験者にしか使えない。

以前、永平寺にいたころ、当時の有名人が参拝にきて、私が坐禅の指導をしたら、その後、当人のホームページだったかブログに、「南禅師に坐禅の指導をしていただいた」と書かれて、仰天したことがある。下手をすれば「不敬罪」になりかねない。大慌てで訂正を申し入れたことは言うまでもない。