1945年3月26日に「硫黄島の戦い」が終結してから、2024年で79年が経過しました。戦没した日本兵2万2000人のうち1万人の遺骨が見つかっておらず、現在も政府による遺骨収集ボランティアの派遣が続けられています。北海道新聞記者・酒井聡平さんは、硫黄島関係部隊の兵士の孫。過去4回硫黄島に渡り、うち3回は遺骨収集ボランティアに参加しました。今回は、酒井さんの初の著書『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』から一部引用・再編集し、硫黄島に眠る謎に迫ります。
硫黄島の滑走路と95%戦死の背景
硫黄島の戦い――それはすなわち“滑走路を巡る戦い”だった。
歴史に「もしも」はない。しかし、仮にこの島に滑走路がなければ、日米両軍が激突する地上戦は勃発しなかっただろう。
戦時中、硫黄島に隣接する父島や母島にいた僕の祖父が生還できたのは、父島にも母島にも滑走路整備に適した平地がなかったからだと言える。
1944年夏。米軍は日本軍から奪取したサイパンに、日本本土爆撃の一大拠点を築いた。
サイパンから本土までの直線距離は二千数百キロ。硫黄島はサイパン―東京間の直線上のちょうど中間にある。米軍が硫黄島の滑走路を奪う利点は大きかった。
利点の一つは爆撃機の護衛だ。
護衛戦闘機を硫黄島に多数進出させ、サイパン発の爆撃機をここから護衛させれば、より低空からの本土空襲が可能になる。それに伴い、爆撃の精度を格段に向上させられるようになる。
二つ目の利点は、爆撃機や搭乗員の損失の抑制だ。
本土爆撃の作戦の帰路、サイパンに辿り着けず、海に着水したり、墜落したりした機体は多かった。
そのため、米軍は搭乗員と機体の損失を防ぐため、緊急着陸できる滑走路が必要だった。それに適していたのが硫黄島だった。