「私たちは、いわば共依存関係にある《一卵性母娘》でした。それがいいとか悪いとか論じる気はありません」(撮影:本社・武田裕介 撮影協力:神奈川近代文学館)
2015年1月、画家の母・江見絹子さんを看取った荻野アンナさん。強い絆で結ばれていると認識しながらも、娘を自分の「作品」だと思っている母親に対して、戸惑いも覚えたと言います。別れから時を経た今、改めて思いを聞いてみると――(構成:丸山あかね 撮影:本社・武田裕介)

「一卵性母娘」の家庭で育って

母が他界してもうすぐ10年になりますが、今も私は母と一緒に生きているような気がします。「こんなとき、母ならどう言うだろう?」と思えば母の言葉が聞こえてくるし、ふと気配を感じることもあるのです。

私たちは、いわば共依存関係にある「一卵性母娘」でした。それがいいとか悪いとか論じる気はありません。そもそも母と娘のありように正解などないでしょう。とはいえ、私が母との関係性に戸惑い、生きづらさを覚えていたのは確かです。

私は一人っ子で、船乗りだった父は家にいないことが多かった。こう言うと、だから母と娘の関係性が濃くなったのねと思われがちですが、私が幼い頃の母は、日本における抽象画ブームの先駆者として創作活動に追われていました。

私の面倒を見てくれたのは、娘の力になりたいと関西から駆けつけた祖母。気づけば父の存在感は希薄になり、母が父親的存在、祖母が母親的存在という奇妙な家庭環境が構築されていたのです。

今にして思えば、母と祖母もまた一卵性母娘でした。祖母の分身として育てられた母は、ごく当たり前のように私を自分の分身として育て上げました。わが子を愛するとはこういうことだ、と疑いもせず。