95歳の誕生会でのショックな出来事
母はとてもおしゃれで、90代になっても、外出するときはスーツにハイヒールでした。商社勤めの祖父は海外赴任が多かったため、娘時代は香港でイギリス系の女学校に通い、ペニンシュラホテルで社交界デビューしたそうです。お洋服も朝、昼、晩で替えるようなお嬢様育ちでした。
父は終戦後、生まれた私の顔も見ないままシベリアで病死しました。父を知らない私ですが、寂しいと思ったことがないのは母のおかげ。子役の仕事を始めてからは、「松島トモ子」の統括プロデューサーのように、常にそばにいて支え続けてくれたのです。
年を重ねても、背筋はまっすぐ、凛として、言葉遣いは美しく、娘バカと言われそうですけど、「年をとることは怖くない」と思わせてくれる素敵なレディでした。「トモ子ちゃんの立派なお葬式を出してから私は死ぬ」が口グセで、母を知るみなさんも、「うん、そのほうがいい」と納得。そのくらい、しっかりとした人だったのです。
そんな母に認知症の症状があらわれたのは、2016年の春のことでした。痛めた手首に巻いた包帯を、すぐにとってしまう。ギプスに替えてもらったものの、それも切る。装着し直すために病院に連れて行くのですが、それが1日に2度、3度と重なって。困って家中のハサミを隠すと、今度は包丁で切ろうとします。
その時期、私はコンサートやミュージカルの舞台で多忙を極めていました。いつも仕事を応援してくれている母が、なぜ私をこんなに煩わせるのか不思議に思うと同時に、腹立たしくもありました。ただ、このときは、おしゃれな母はギプスがイヤなのだろう、くらいに受け止めていたのです。
「これはおかしい」と決定的に感じたのは、5月に中華料理店で開いた母の誕生会。本来の誕生日は2月ですが、寒い時期ですし、お招きする方たちの都合もあり、時期をずらして祝うことになったのです。
その席で、母はいつもの母ではありませんでした。人の話をまったく聞いていない。ひたすら料理を食べ続ける。親に言う言葉ではないかもしれないけれど、まるで“餓鬼”の姿そのものでした。ふと、ずり上がった母のスカートを直そうと手をのばしたとき、真っ青になりました。失禁していたのです。母を気遣うことよりも、その場をどう取り繕うかで頭がいっぱい。このときを境に、一気に症状が出始めました。