
60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。
買物を済ませて帰宅すると、荷物を置いてすぐに父の様子を見に行った。
父は自分が優先されないと激昂する。帰宅して手を洗ったり、トイレに行ったり、先に麻子に声を掛けたりしてはいけない。一番に自分に帰宅の報告をすることを求める。
私は父の寝室をのぞいた。すると、父は眠っているように見えた。起こさないようにそっとドアを閉めて引き返そうとすると、背後から怒鳴られた。
「木綿子、挨拶はどうした。親を無視するな」
「ごめんなさい、お父さん。眠っていると思ったので」
「バカにするな」
こうなるともうダメだ。私は父が怒鳴り疲れるのを待った。とっくに慣れているはずなのに平気でいられない。自分自身が物理的に擦り切れていくのを感じる。
ようやく父が静かになると、ドアを閉めて台所に戻った。手を洗って荷物を冷蔵庫に収め、階段を上る。
閉まったままの麻子の部屋のドアに向かって声を掛ける。
「ただいま、麻子」
しばらく待ったが、返事はない。二階の廊下はしんと静まりかえっている。
「晩ご飯、いっしょに食べる?」
やはり返事がない。
「用意をしておくから、好きなときに食べに来て」
ため息が出そうになるのを堪えて階段を降りようとしたとき、麻子の部屋の中から物にぶつかるような、紙束を落としたような大きな音がした。まさか――。
