60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。


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 二〇二五年 四月(2)

 霧は藍染めの半纏姿で出迎えてくれた。今日も蔵はひっそりしていて、これで経営が成り立つのだろうか、と思わず店内を見回してしまった。
 そんな気持ちが顔に出てしまったらしく、霧が苦笑した。
「土日は結構人が来るんですが、平日はのんびりやってます」
 恥ずかしくなって、慌てて言い訳をした。
「いえ、静かで落ち着けて、いかにも老舗の蔵という感じです。仕込みは大丈夫なんですか?」
「おかげさまで一段落しました。……せっかくだから一杯」
 長い細身のグラスに氷を入れて蓬命酒を底にすこしだけ注ぐと、冷蔵ケースから炭酸水の瓶を取り出して栓を開けた。
「炭酸割りにすると暑い日は美味しいですよ」
 細長いグラスは手吹きのようで、小さな気泡があちこちに見て取れた。漂うこともなく行き場を失ってガラスの中に閉じ込められた泡は、霧と同じくらい寂しそうだった。 
 原稿のチェックを頼むと、霧はレジ横に置いてあった老眼鏡を手に取った。上部だけに縁があるハーフリムで、掛けると顔がシャープになった。
 霧は原稿を一読して顔を上げた。