60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。

 その夜、夕食の後で原稿を書き直すまえに、石上露子の評伝を読んだ。
 ――富田林の豪商の家に生まれ、先進的な教育を受けた彼女は歌壇にデビューして、一躍有名となる。だが、長女の彼女は家を継ぐことを強要され、大阪に戻って婿を取った。さらに夫は露子が歌を詠むことを禁じた。
 夫は女癖が悪く露子は苦労した。また夫には経営の才はなく、巨額の借金を抱えて家は傾いた。息子が二人生まれたが、病死、自殺などで二人とも露子より先に死んだ。そして、露子は七十七歳で病気で亡くなった――。
 哀しい生涯かもしれない。だが、貧困とは縁のない恵まれた生涯とも言える。
 原稿の手直しには時間が掛かった。つい、霧のことを考えてしまって仕事が進まないのだ。鳴らない下駄を履いた霧のことが頭を離れない。あの寂しさが今でも私の周りを漂っているようだ。