毎日恋文が束にする程舞いこんで
私は毎日六時に芝の家を出かけて、二時間もペダルをふんで通ったものだった。
燃えるような緋の袴、紫の着物、白いリボン、それがサッソウとペダルをふんで行くのだから、たしかに世間の視聴を集めたのに無理はなかった。自転車小町などという仇名がつけられて、毎日のように新聞紙上をさわがしたものだった。芝を出て神田から一ツ橋にかかると学生達が大変なさわぎで、なかには「闇の夜には気をつけろ」などとどなる者もあった。女だてらに自転車に乗ったりして生意気なというのである。毎日恋文が束にする程舞いこんで来て母達を困らせたものである。
母などにいわせると、私は大変やさしい所のある娘だったのだそうで、小さい時から、自分づきの女中達のことなど何くれとなくかばってやって、悪いことなどは、母に聞かせないようにようにと、小さい心を配っていたんだそうだ。
此頃になってもそういう気持が失せず、学校へ行く途中、可哀そうな野良猫や犬などを見つけると、毎日毎日何匹でも拾って来るので、家の中はそんな猫や犬で閉口したとよくその頃のことを母は話すことがある。
今でもそうだが、ことにこの「可哀そうだな」という感じは、殊更に深くって、これが私の性格の長所でもあり、弱点でもあると思っている。後にアメリカからナポリに行く船の中で、ふと見る三等船客の子供達――それは伊太利〔編集部注:イタリア〕の船なので伊太利人の子供が多かったが――寒空に靴下がやぶけて見るからに哀れな姿をしているのを見ると、ああ可哀そうにとしみじみ見ていられない気持になって、何かあの子供たちにいい贈り物はないかと考えた末、自分の首飾りをこわして、その玉を一つ一つあの子供達にあげたいからと船長に申し出ると、大変喜ばれて、先刻の子供達が、母親に連れられて、さもさもうれしそうに私の前へ首飾りを貰いに来た。私も喜んで一つ二つ手渡しているうちに何としても子供達がいとしくなり抱き上げたり、接吻したりしてやったのだったが、ナポリへついてから気がついて見ると、何とその子供達から、私の頭へ虱を貰っていたのだった。
――マダム・ミウラ、だからあなたはああいうことをなすっちゃいけないんですよ。
と私は人からいわれたものである。