八
その日、女が二人、おゑんを訪ねてきた。
一人目の女のとき、おゑんには客がいた。
日本橋高砂町(たかさごちょう)の損料屋、田上屋(たがみや)の夫婦だった。
十日前、庄助(しょうすけ)とお綱(つな)と名乗る夫婦は、おゑんの手許にいる赤子を一人、引き取りたいとやってきた。なぜ引き取りたいのか、引き取ってどう育てるつもりなのか、事細かく尋ねる。その上で十日間の猶予を告げる。十日後にまた、お出でくださいと。
その間に、田上屋夫婦について出来得る限り調べるのだ。高砂町に本当に田上屋という損料屋はあるのか。店構えは、暮らしぶりはどうなのか。何より、本気で子を育てられるだけの人間なのかどうか、赤子を託すに足る相手なのかどうか、調べ、確かめ、見極めねばならない。
十日後、二人はやってきた。
奥の座敷に通す。赤子たちの部屋に近く、時折、泣き声が聞こえてくる。
所帯を持って十二年、血の繋がった子は諦めたけれど、人の親として生きる日々は見切り難く、先生の噂を頼りにやって参りました。
座るなり、田上屋庄助は里親になる意志をはっきりと口にし、頭を下げた。
「先生、どうか、わたしどもに子を育てさせてください」
夫の後ろで、お綱も同じ仕草をする。双眸が少し潤んでいるようだった。
「田上屋さん、人の子は犬や猫とは違います。そう容易く育てられると思わないでくださいな。貰ってきた。気に入らなかった。だったら手放せばいいなんて、軽々しく考えてもらっちゃ困るんです。何があっても、その子を育て上げる、慈しむ、守り抜く、一生を共にすると、心を決めておられますか」
少し冷たく、突き放すような言い方をした。
この家にいる赤子たちはおおかた、生まれ落ちたときから親がいない。父親はもちろん端から影もなかった。母親は産後に亡くなったか、嬰児(みどりご)を置いて消えたかだ。母親に抱かれ、ここを去って行った者もいるけれど、母親の乳の味も父親の手の温もりも知らぬまま残された子も多い。
だからこそ、しくじりは赦されない。
親に二度も捨てられる子を生み出すわけにはいかないのだ。
「決めております」
お綱が顔を上げ、庄助の背後から答えた。声音は小さく掠(かす)れてもいたが、口調は強い。言い切る強さだ。
「先生」
お綱は夫の隣まで、膝を進めた。
「わたしたちは何度も何度も話をいたしました。自分たちのこと、赤子のこと、行く末のこと、店のこと……わたしは離縁して実家(さと)に帰るつもりでもおりました。この人に新しい連れ合いができれば、もしやと……そう思ったからです」
「お綱」
庄助が僅かに眉を寄せ、女房の膝に手を置いた。
「落ち着きなさい。先生は、わたしたちに覚悟があるのかと問われたのだ。血の繋がっていない子を我が子として、本当に認められるのかと、な」
庄助はおゑんに向き直り、頷いた。
「先生、お綱の言う通りです。わたしどもの心は決まっております。ここを訪れるまで、二人でたっぷりと話し合いました。離縁も含めてです。この十日の間も、いつにも増して話をいたしました。一生のうちでの夫婦のやりとり、その半分くらいは費やしたように思えます。そうだな、お綱」
庄助が女房に真顔を向ける。お綱は、静かに頷いた。
「半分かどうかはわかりませんが、この人とじっくり向き合うことはできました。どちらか一人ではなく、二人で決めて今日ここに参りました」
「ええ、そうです。ずっと夫婦でいよう。赤子を二人で育てようと、そう決めたのです。店の行く末のことだけを考えれば、縁戚からの養子という方法がよかったかもしれません。けれど、そうではなく……わたしたちは、わたしたちの子を育てたいのです。お綱とわたしの子を、です。もし、もし、先生がそれを許してくださるのなら、お綱が産んだことにして育てようと、そこまで話し合いました。話し合って、お互いの本意を確かめました。揺るぎはありません」
「なるほど。それが田上屋さんが、あたしの許にお出でになった、一番の理由ですね」
「はい。ここなら、赤子の生まれを誰にも知られずに済む。そう思案してのことです」
庄助からもお綱からも、張り詰めた気配が伝わってくる。
本気だね。
おゑんは傍らに座るお春と目を合わせた。お春が立ち上がり、黙したまま座敷を出て行く。暫くの間の後、赤子を抱いて帰ってきた。
「三月(みつき)前に生まれた女の子です。名はゆき。実母が名付けました」
おゑんが告げると、お綱は腰を浮かし、御包(おくる)みの中の赤子を覗き込んだ。
「……眠ってますね」
「ええ、四半刻ほど前に、珍しくお乳をたっぷり飲みました。とてもよく、眠っています。抱っこしてみますか」
お春は赤子をそっと差し出した。お綱が唾を飲み込む。
「まあ、あたし、ちゃんと抱けるかしら。手が震えて……」
「大丈夫だ。ほら、おれも支えるから」
庄助が御包みに手を添える。
「ゆきか、よい名前だ」
「母親は、おゆきを産んだ二日後に姿を消しました。どうしても育てられない事情があったようです。母親が残したのは、名前だけ。あたしも詳しいことは……いえ、詳しいどころか、ほとんど何も知りません。おゆきは月足らずで生まれて、身体が小さく、乳を飲む力も弱く、そのせいか夜泣きもします。乳を吐くこともしばしばです。正直、育てにくい子であるかもしれません。でも、よく笑います」
お綱が視線をおゑんに向ける。
「笑うのですか」
「ええ、笑うのです。驚くほどはっきりと笑います。響きのよい綺麗な声ですよ」
お綱の頬が赤らむ。眸がさらに潤んだ。
「そう、笑うの。おゆき、おまえは、よく笑う子なのねえ」
「見てみたいな、おゆきの笑った顔」
田上屋の夫婦は顔を見合わせ、口元を綻ばせた。
「先生、この子を、おゆきを連れて帰らせてください。お願いいたします」
お綱が乞うてくる。縋るような眼差しを向けてくる。
「今日このまま連れて帰っても大丈夫ですか。受け入れる用意はしてあるのですか」
「はい。いつでも迎え入れられるように、襁褓も着る物も夜具も用意いたしました」
「乳はどうします。乳母(うば)がおりますか」
「おります。呼んだらいつでも来てくれるように頼んでおります」
気持ちだけでなく実際として全てを整えているわけか。
お春をちらりと見やる。
どう思う。当たりのような気はするけれど。
お春が僅かに首肯した。
ええ、当たりですね。任せて大丈夫かと思います。
眼差しだけのやりとりの後、おゑんは腹を決めた。
「わかりました。おゆきはお任せいたします。ただし一月経ったら、一度、ここに連れてきてください。それを約束してもらいますよ」
「畏(かしこ)まりました。先生、ありがとう存じます」
お綱はおゆきを抱きかかえ、庄助は手をついて、深く低頭した。
(この章、続く)












