「おゆきちゃん、幸せになってくれるといいですね」
田上屋夫婦とおゆき。三人を見送った後、お春が吐息を漏らす。
「そうだね」
短く答える。他に答えようがなかった。
相手が大人なら、その行く末の幸せなど祈らない。どれほど祈っても、念じても、乞い続けても手に入らないものは手に入らない。祈りでなく、現の中でどう動き、どう生き方を定めるかで幸運も不運も巡ってくる。
けれど、赤子の幸せは祈る。赤子は己の動き方も生き方も、己では決められない。ただひたすら生きるだけだ。乳を飲み、泣き、笑い、育っていく。
日々生きて、育つ生命を現の中で支え続ける。
庄助とお綱は、そういう大人であってくれるだろうか。一抹の不安は過る。赤子を託す度に覚える不安だ。どれだけ調べ、手を尽くしても拭いきれないものだろう。
だから祈るのだ。神にも仏にも助けを乞う。
「おゑんさま」
薬草の香りを纏って、末音が後ろに立った。
「お客さまが、待っておられますで」
「お客? 誰だい」
患者なら患者だと、末音は言う。
「お定さんと名乗られました。伊野屋の先代に仕えていた方のようですの。奥の座敷が塞がっておりましたから、台所横の小間にお通ししております」
「お定さんが……」
「先代が亡くなられたそうです」
「そうかい」
廊下を歩きながら、おゑんは胸の底が少しばかり冷えていると感じた。
先代伊野屋宗兵衛は亡くなった。病床での様子を見れば、余命いくばくもないのは明白だったのだ。むしろ、よくここまで持ちこたえられたものだ。
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なぜか、伊野屋の立看板が眼裏に浮かんだ。先日目にした新しい物ではない。その昔、まだ十五のおゑんが見上げた看板だ。とても古い物で、文字は薄れ、消えかけたところもあった。板自体は分厚く、立派な物だったから、風に揺れることはなく、雨に濡れてもみすぼらしくは見えなかった。空が碧(あお)ければ、その碧空(へきくう)を背にして看板は聳(そび)え立っているかのようだった。
大昔の話だ。
「失礼しますよ」
声を掛け、小間の障子戸を開ける。
部屋が明るいのは庭に向けて、窓があるからだ。丸く刳(く)り貫かれた窓の外では竹林が風に揺れていた。薄鼠(うすねず)色の小袖に黒い帯を締めたお定が、頭を下げた。
「お定さん、よく来てくださいました」
「お約束もいただかぬまま、おとないました。ご無礼をお許しください」
「約束などいりませんよ。お定さん、ここは宮中でも千代田(ちよだ)城内でもござんせん。堅苦しい挨拶や遠慮は抜きにいたしましょうよ。そうしないと、お話の本意が見えづらくなります」
お定が顔を上げる。
目の下にくっきりと隈が浮かび、頬もこけて、一気に老け込んでいる。
おゑんはそっと息を呑んだ。
「先生、昨日、先代が亡くなりました」
「ええ、さっき伺いました。最期のご様子、お伺いしても構いませんか」
「はい。とても静かでした。わたしはずっとお傍にいたのですが、気が付かないほど静かに息を引き取られました。亡くなられるほんの僅か前に、わたし、声をお掛けしたのです。唇が乾いていたので、湿して差し上げようと思いまして。『大旦那さま、新しいお水を持ってきますね。唇をお拭きしますよ』と。そのとき、大旦那さま、眉を動かされたんですよ。上下に動かされて、わたしにはそれが『頼む』というお返事に思えました。でも……お部屋に戻って濡れた手拭いを差し出して……そこで、気が付いたんです。大旦那さまは息をしていないと……。ええ、お静かに逝かれましたよ。痛みや苦しみを訴えられることは、ございませんでした」
それを聞いて、安堵する。苦悶し続けた三千恵の姿が、脳裏を過った。苦痛に苛(さいな)まれることなく、最期を迎えられたのなら、それはそれで幸せではないか。枯木が朽ちて倒れるように、倒れた木が土に返るように死んでいけるなら……。
さて、幸せかどうか。
おゑんは唇を結ぶ。
人はややこしい。息が絶える寸前まで心という厄介なものを抱えている。そして、心は身体とは別の疼き、痛みを人に与える。
先代はそれからも解き放たれて、逝けたのだろうか。
「そうですか。では、安らかに逝かれたのですね。それなら、ようござんすが……」
お定が背筋を伸ばした。膝の上に手を重ねる。
「それは、わかりません。いえ、大旦那さまは、お安らかではなかったと思います」
寸の間黙り、お定は息を吐き出した。
「先生は、そうは思われませんか」
おゑんも背を立てる。真正面から、お定を見詰める。
「お定さん、それが、今日お越しになった理由ですか」
お定がもう一度、吐息を漏らす。密やかな、細い吐息だった。
「今日は、先代、伊野屋宗兵衛の名代として参りました」
「名代?」
「はい。先生にお渡ししたいものがございます」
お定は袂(たもと)から一通の書状を取り出し、おゑんの前に置いた。
「大旦那さまからでございます。自分が亡くなった後に先生に届けるようにと、言い付かりました。先生がお見えになった翌日のことです」
「拝見いたします」
一礼し、おゑんは書状を開いた。
ところどころ掠れてはいるが、達筆だ。ただ、明らかに女の手跡(て)だった。
読み終える。
おゑんは立ち上がり、末音を呼んだ。それから、茶の用意をする。
「お定さん」
「はい」
「この書状、あなたがお書きになったのですか」
「はい。大旦那さまは、もう、文字を綴る力が残っておられませんでしたから。わたしが、お言葉を書き留めました。大旦那さまがそのように命じられましたので」
お定の顔が心持ち歪んだ。それまでの凛とした気配が崩れ、心許なさが面に滲む。
「先生、お疑いでしょうか」
「あたしが、これを本物かどうか怪しんでいると? つまり、お定さんが勝手に作り上げた偽物と思っているかと、お尋ねですか」
「はい。本当に大旦那さまのお言葉かどうか確かめる術はありませんから」
「術はありますよ。この書状の中身を読めば、わかります。先代しか知り得ない事実が書いてありますからね。あたしは一分の疑いも持っちゃいませんよ。ふふ、お定さん、考え過ぎの嫌いがありますねえ」
「あ……そうですね。わたし、昔から心配性で……」
「それじゃあ疲れませんか」
お定の前に湯呑を置く。お定が目を見張った。大振りの湯呑に、たっぷりの茶が入っていたからだ。客用に出す湯呑でも茶の量でもない。
「どうぞ、お飲みくださいな。これは、おもてなしではなく医者として勧めております」
「お医者さまとして?」
「はい。ちょいと、失礼しますよ」
お定の手を取り、寸口に指を乗せる。それから、下瞼を引き下げた。
「あ、あの先生」
「はい。では舌を見せてくださいな。そう、伸ばして……ああ、やっぱり、そうとう疲れが溜まっていますね。血が薄いのは前からですか」
「はぁ。そんなこともなくて……あの、疲れとか、感じておりませんが」
「ええ、今はまだ気が張っておられるのでしょう。それが緩んだときに、疲れがどっと押し寄せるかもしれません。そういえば、お定さんはずっと、先代のお世話をしておられたのですか」
「あ、はい。二年前に大旦那さまがお倒れになって、寝たり起きたりを繰り返すようになって、そのときからずっと身の回りのお世話をしております」
「病人の扱いに慣れておられましたね。そこを見込まれたのでしょうか」
お定が首を傾げる。
「さあ、どうでしょうか。わたしは、長らく伊野屋で住み込みの女中をしておりますが、それ以前、実の母も亭主も病弱で看病には慣れておりました。その母は三年、亭主は一年ほど寝付いて亡くなりました。天涯孤独の身になったところを大旦那さまが雇ってくださったのです。大旦那さまのご恩に報いるためにも、わたしなりに懸命に働きました。たいしたことはできませんでしたが、裏表なく働いてきたつもりです。大旦那さまは、そういう働きぶりを見ていてくださった。それで白羽の矢が立ったのではないかと思います。大旦那さまが自ら、世話はお定に頼みたいと言ってくださったと聞きましたので」
(この章、続く)












