
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
「私にできることは少ない」
主人はそう言いながら、杖を突きつき坂道を上る。けっこうな土地を持つ地主ながら、着ている上衣(チョゴリ)も袴(パジ)も質素な生成りで、庶民と変わらない。秋になり、道の左右は赤や黄色に葉を染めた木々が生い茂っている。
「そんなことはございません」
主人の革鞄を持つ泳葉の父は、控えめな声で応じた。
「きょう旦那さまがお口添えなさったお人も、明日には釈放されるでしょう」
「だと、よいのだが」
主人は祈るように言った。
並ぶ二人の三歩ほど後ろを、一七歳になった泳葉は手ぶらで歩いている。主人から授かった、秋には早く思えるほど分厚い外套(がいとう)の内ポケットには、やはり分厚い封筒を忍ばせてある。中身は紙幣の束だ。
主人が住まう村と所有する農地は、軍政庁が布告した「敵性地帯」にぎりぎり入っている。「退去せよ」と急に命じられたところで、生活の基盤を捨てられるわけもない。結局、居残っている人が多い。
主人は地主だから「赤色分子」の嫌疑は受けない。その立場を生かして平素から、なるべく多くの人を無実の処刑から救うために手を尽くしていた。今日も、親類の友人が山部隊の人間と親しい、という薄弱な根拠で連行された小作人のために警察支署へ出向いていた。泳葉の父は主人の鞄を、泳葉はいざとなれば使う賄賂の紙幣を持ち、お供をした。応対してきた警官は横柄ながら生真面目な人で、拘束している小作人の再調査を約束してくれた。賄賂を使う機会はなかった。
「ずいぶん歩いたからか足が痛む。すまないが、帰ったら揉んでもらえるか」
「もちろんでございます」
リウマチを患っている主人の頼みに、父はしおらしく頭を下げる。揉むというより掌でぐりぐりと肉を押す父のやり方が、主人の足には心地よいらしい。泳葉からすれば父の態度はやや卑屈に過ぎるが、父が卑屈になっても腹が立たないくらいには、泳葉も主人を尊敬していた。
やがて村に入り、濃灰色の石垣を巡らせた家に至る。泳葉は外套と封筒を返してから、台所へ行った。主人に出す茶を淹れるため、竈(かまど)に薪を突っ込み、マッチを擦って焚きつけの新聞紙に火を移し、扇で風を送る。七輪とはまことに便利な道具だったが、できればガスが通っている家に住みたかった、などと日本に住んでいたころをあれこれと思い返す。
母は今日も海に潜り、以前のように貝や海藻を獲っている。島を見下ろす漢拏山ほども揺るぎなく日常を継続している。殺戮が日常となりつつある島では、まったくの日常もまた継続されている。人間の世とはずいぶん不思議なものだ、と泳葉は思う。
竈の中で薪のそこここが赤く光り、それから小さな、やがて大きな火が熾(おこ)った。立ち上がり、水瓶を覗き込む。中の水は茶を淹れるには充分だが、父が行う夕食の炊事に足りない。ここにも水道が通っていれば、などと恨み言を頭でもてあそびながら、泳葉は黙々と薬缶に水を満たして火にかけた。それから桶を手に引っかけて井戸へ行く。
釣瓶(つるべ)を使って水を汲んでいると、銃声が立て続けに聞こえた。桶をほっぽり出して台所へ駆け戻る。土足のまま板間に上がり、なお走り、廊下を曲がる。
そこで二人の男に出くわした。
「きみもいたのか、泳葉」
先に言ったのは哲柱のほうだった。着ているセーターは毛玉だらけで、土埃にまみれていた。手には拳銃を握っている。
「友人です。先に行っててください」
哲柱の声は震えていた。猟銃を携えていたもう一人は、「お前も早く」と早口でささやいてから玄関のほうへ走っていった。
「どけ」
呆然と立ち尽くす哲柱を押しのけ、泳葉は部屋に入る。主人と父が、赤黒い穴だらけの身体を絡み合わせて死んでいた。父が足を揉んでいる最中に暴漢が踏み込んできて、あわててもがいているところを、弾のある限り撃たれた。遺体は、殺害の状況をやすやすと想像できる姿をしていた、
泳葉はかがみこみ、足元の紙片をつまみ上げる。
――祖国統一の敵、同胞人民を搾取する悪魔、親米ブルジョア地主に正義の鉄槌を。
紙には勇ましい字が躍っている。主人が誰の敵だったのか、悪魔と呼ばれて当然のことをしたのか、泳葉は知らない。だが主人はその目と手が及ぶかぎり、同胞を助けようとしていた。巻き添えになった父は、敵など作りようがないほど控えめな人だった。
振り返る。哲柱は顔を真っ青にしている。
「きみのお父さんだったことは、撃ってから気づいた」
「おまえ、もう殺した。いまさら、何を言う」
泳葉は、たどたどしい自分の口調に腹が立った。だが日本語を使ったとて、何を言うべきかは分からなかった。
「官憲や警備隊、米軍は、済州島を『赤の島』と言っているらしい。だから、僕ら山部隊だけでなく、無辜(むこ)の島民まで殺しまわっている。彼らの考えを僕なりに推測すれば、この島には今殺すべき赤と、いずれ殺すべき赤しかいないのだろう」
「だから、おまえら山部隊も人を殺していい。哲柱はそう言うのか」
「問いに問いで返してすまない。きみは赤が、社会主義者(サフェジュイジャ)が悪魔だと思うか」
「俺の父と主人を殺したのは、主義じゃない。おまえと、さっき行ったやつだ」
どんなにえらい理想でも、それだけではただの言葉の塊にすぎない。教科書が自ら銃を手にして狙いを定め、引き金を引くなんてできるわけがない。
「ぼくは悪魔ではなく、人間だ。何が罪であるかは知っている」
こいつは俺の話を聞いていない、といら立つ泳葉の前で、哲柱はゆっくり右手を上げた。握っていた拳銃をぴたりと自分のこめかみに突きつける。
「ぼくが悪魔ではなかったことを、せめてきみだけには知ってほしい。きみの友人は上からの命令に逆らえないほど無力だった。だが、この狂気の島で、自らを罰するくらいには人間性を保っていたことを証明させてくれ」
「おまえ、殺した相手が俺の親でなければ、自殺するか。俺の主人だけ殺していたなら、自殺するか」
哲柱は答えず、悲しげな微笑だけを浮かべた。
手前勝手な奴だ、と泳葉は思った。友人の父と全くの他人で、その命にどれほど重みが違うと言うのか。人間の命に軽重をつけるという本当の悪を知りながら、気取った態度でごまかす。知ったような言葉をこねくりまわし、自らが奪った人間の命すら陶酔の材料に使って憚(はばか)らない。
だが、哲柱の言うとおりだ。哲柱は悪魔でも、祖国を憂う真摯な若者でも、貧しい大衆を救おうとする高邁(こうまい)な革命家でもない。呆れるほど身勝手で底なしの莫迦。つまりは人間だ。
「きみは憐れんでくれるのか。親の仇(かたき)であるぼくを」
そういう顔をしていたのか、と思いながら、泳葉は数歩を歩む。哲柱の顔がすぐ目の前まで近づいた。
そのまま頭を振り下ろす。額に、哲柱の鼻を潰す感触があった。さらに鋭く手を伸ばし、銃を掴む。哲柱はされるがままに銃を奪わせ、そのままへたり込んだ。ひ弱なのではなく、抵抗するつもりがないらしかった。
「撃て、泳葉」
言われて、泳葉は動いた。哲柱の顎を蹴り上げる。
「早ヨ去(い)ネ、阿呆」
とっさに日本語を、次に唾を吐いた。自らが望む死など、この男にはもったいない。警察か警備隊に追われ、どこかで無様に殺されろ。そう思った。
哲柱は勲章でももらうような恍惚(こうこつ)とした顔で蹴りと唾を受け、それから兎より機敏に跳ね起きて玄関のほうへ走り去った。
泳葉は銃を投げ捨てた。手の甲にくっついていた阿呆の鼻水をズボンの腿でこすり落とす。それから二つの遺体に向かって静かにぬかずいた。
「旦那さま、いままでのご恩、忘れません」
静かに言ってから立ち上がり、まず主人の遺体を床に横たえる。続いて物言わぬ父を背負う。母に会わせてやらねば。そう思いながら泳葉は屋敷をあとにした。
〈つづく〉
