60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。

 家に帰ると、もう十一時前だった。

 剣人たちはもう眠っていて、蔵は静まり返っていた。俺は風呂を浴びて中庭に出た。まだ万博の興奮が身体に残っていて、このままでは眠れそうになかった。

 この時間になると、さすがに夜気が心地よい。空には中途半端に膨らんだ十三夜ほどの月が浮かんでいた。

 俺は月を尊敬する。月は決して裏側を見せない。その努力を尊敬する。

 雨彦がベランダから飛び降りたとき、何故気づかなかったのか。息子が眠ったまま呼吸をしなくなったとき、何故気づかなかったのか。

 答えなどないことはとっくにわかっている。だから、俺は補聴器を耳に押し込み、今度こそ聞き漏らすまいと努力し続ける。そうだ、俺は月になりたいのだ。

 中庭で月の光を浴びながらスマホを取り出し、木綿子にメッセージを送った。

 俺はもう一度月を見上げた。もう誰も死なせたくない、心の中で繰り返す。

 ――来週、東京へ行く予定です。息子の命日なので別れた妻と墓参りをする予定です。なにかお土産を買ってきます。

 手を止め、しばらくじっとスマホの画面を見ていた。決まったことなのに、予定です、と二度も繰り返している。保身と予防線がくすぶった卑怯なメッセージだ。

 もう一度空を見上げた。そして、最初から書き直した。

 ――来週、東京へ行く。別れた妻と息子の墓参りをしてくる。なにか土産を買ってくる。楽しみにしていてくれ。

 そうだ、これでいい。スマホをポケットに突っ込み立ち上がった。風呂上がりなのに指はすっかり冷たくなっていた。