
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
運輸大臣のもとへ報告に行く藤原長官を見送った松原は、アメリカ極東海軍司令部を再び訪れた。要望の形で寄越こされた指示に承諾の意を伝え、要望の詳細を聴取し、海上保安庁の庁舎に帰ってきたころ、時刻は午後三時を少し過ぎていた。
昼飯を食いそびれた、と愚痴をもてあそびながら自席へ戻ると、隣席の職員が「ああ、松原さん」と顔を上げた。右手には半分ほどかじった稲荷寿司、左手には今しがたまで目を通していた書類を持ったままだ。何の仕事をしているかは知らないが、誰もかれもが忙しいらしい。
「いましがた長官が外出から戻られて、そのまま航路啓開本部長のお部屋に入りました。松原も帰りしだい、こっちに来いとのご伝言です」
今日は濃密な一日になりそうだ、と思いながら松原は手を伸ばした。
「ひとつ、もらうぞ」
まだ手付かずで経木(きょうぎ)の上にあった稲荷寿司を一つつまみまげ、「あっ」という恨めしげな声を聞き流し、松原はその場を離れた。航啓本部長室の扉をノックする。「どうぞ」という返事と同時に、頬張っていた稲荷寿司を呑み込み、入室する。藤原長官と村上本部長が応接テーブルを挟んで座っていた。
「早かったな、座りたまえ。先に通常の掃海業務について話していたところだ」
まだ本題に入っていない、と教えてきた藤原の左隣に、松原は座った。
ふいに沈黙が訪れる。「お話しください」と村上が促すと、藤原は意を決したように口を開いた。
「アメリカ極東海軍から指示があった。わが掃海隊に、朝鮮海域での掃海を願いたい、とのことだ。――松原くん、要望の仔細はどうであったか」
は、と松原は応じた。
「掃海艇二〇隻、試航船一隻、巡視船四隻を門司に集結させよ。なお、この二〇隻には佐世保と東京湾を掃海中の船艇は含まれない」
米軍から改めて聴取した内容を、聞いたままに松原は報告した。
「掃海先は仁川(じんせん)、元山(げんざん)、ほか追って指定される朝鮮水域。以上であります」
それまで黙然と聞いていた村上は、元山と聞いたところでわずかに眉を動かした。気づかぬふりをして松原は続ける。
「門司への集結指示は特に理由がなさそうでしたから、港湾の設備面から下関に集結させるのが適当かと思料します」
「米軍からの要請を書面化する件はどうなった」
藤原は、総理官邸での別れ際に指示してきた事項について言った。
「先方の参謀副長に確約をもらっています。数日欲しいとのことでしたが、アメリカ極東海軍司令長官の名で、日本国運輸大臣を宛先として出す、とのこと。今回に限ったことではありませんが、米軍は決定が早いので感心します」
「よろしい。これで掃海隊の朝鮮派遣は正式なものとなった」
藤原は満足げにうなずき、村上に向きなおった。
「アメリカの主導で講和が実現しそうな時節柄ゆえ、できるかぎり米軍に協力せよ。吉田総理はそう仰せです。ただし、極秘に」
村上はすぐに答えない。当然だ、と松原は思う。米軍からの指令が書面になったところで、海上保安庁や日本政府にとっての組織論的な正しさが担保されるに過ぎない。朝鮮派遣が国際法上の参戦に当たるかどうか、また日本の新憲法に適合しているか否かという問題は、棚ざらしのままだ。その棚ごと国際社会や国民の目から隠しておこう、という吉田総理の判断は、言うだけならともかく、やるとなれば簡単ではない。そんな大きな風呂敷は、この世のどこにもない。
「極秘となれば」
やっと村上は発言した。
「現場の職員には海に出るまで明かせませんな。明かせば上陸先の酒場なり、家族への私信なりから漏洩(ろうえい)することは目に見えています。だまし討ちのように掃海先まで連れてゆくしかない」
「さよう、あいなりますな」
藤原は気弱な返事をした。村上より齢下(としした)だが、齢ではなく難しい任務を命じねばならぬ立場が、そうさせたのだろう。
「ならば、総指揮官職はこの村上が拝命したい」
「――頼みます」
「また、総指揮官も派遣部隊に同行します。ご了承いただけますか」
「総指揮官のよろしきようにお願いします」
だます役目を買って出る、と表明した村上に、藤原は深々と頭を下げた。
「総指揮官」
考えてみれば気の早い呼び方を、松原はした。
「仁川、元山、そのほか。米軍から指示された掃海先は以上です。総指揮官はどちらへ行かれますか」
「決まっている。元山だ。でなければ、私が行く意味がない」
おそらく戦地となる港湾の名を、村上はこともなげに答えた。
それから幹部の人選に入った。東京の本庁から七名に、各地の掃海隊幹部を加えて総指揮官付とし、司令部を編成する。朝鮮海域へ派遣する掃海艇は米軍の指示通り二〇隻。これを五隻ずつ四隊に分け、各管区の航路啓開本部長を指揮官にあてることとした。
「各隊の指揮官には、私から話をします」
村上は執務机へ行き、電話の送受話器を取った。
「朝鮮海『峡』あたりの掃海をやることになったのだが、きみに一隊の指揮官を頼みたい」
四人の航路啓開本部長に、村上は判を押したように同じ言い回しをした。米軍の指示とも、戦地かそれに準ずる後方の掃海とも言わなかった。
「では、私は派遣の段取りをやります。手が足りませんので、しばし松原をお借りします」
村上の言葉で、密室での談義は終わった。藤原は長官執務室に戻り、指揮官付に選ばれた各員を呼び出してゆく。
松原は航路啓開本部の面々とともに、村上のいう「派遣の段取り」に取り掛かった。派遣する船艇を選出し、集結地への補給品の輸送を手配し、必要な書類を書きなぐり、通信文を起草して発信を手配し、人事など正式な発令が必要な話は都度つど、藤原に報告する。
朝鮮派遣に選んだ掃海艇が所属する各管区宛ての、下関集結命令の電文案を書いたころには日付が変わっていた。電信室へ行って発信を手配し、さすがに疲れを覚えながら便所に立つ。
朝までには、東京の本庁でやるべき一通りの処置は終わるだろう。そんな見込みを持ちながら松原はズボンの前を開け、閉める。
ただし、と手を洗いながら考える。今回は通常の掃海ではない。書類や命令上の処置を整えたところで、現場の職員がひとりでに動くわけではない。だまし通すか、明かして説得するか、どちらにしても村上総指揮官の手腕にかかっている。東京での長官の補佐が主務の松原は、残念ながら派遣部隊の司令部には入れられなかった。
松原は歯がゆさを感じた。 〈つづく〉
