「不安や困難に押しつぶされないための生きる力、『ネガティブ・ケイパビリティ』という考え方を、みなさんにぜひ知ってほしい」(撮影:樋田敦子)
『閉鎖病棟』などの小説で知られる、作家で精神科医の帚木蓬生さん。世の中に立ちこめる不安な空気に押しつぶされないためにも、ある「能力」を身につけることの重要性を説きます。自分らしく生きることにもつながるその力とはーー(構成・撮影=樋田敦子)

「ネガティブ・ケイパビリティ」という考え方

コロナ禍による生活の変化は、私のクリニックを訪れる患者さんの心や体にもさまざまな影響をおよぼしました。孤独や不安を訴えたり、気分が落ち込んでやる気が出なくなる、いわゆる「抑うつ状態」に陥ったりする人が増えたと感じます。

特に中高年の女性たちは、移動を制限されたことによって、介護施設にいる親と面会できなかったり、子どもや孫、友人と会う機会を失ったりして、「寂しい」と口にする人が少なくありません。抱えている思いを話す相手がいなければ、不安は消えないのです。

こうした出口の見えない非常事態のときこそ、医師として「ネガティブ・ケイパビリティ」という考え方を、みなさんにぜひ知ってほしいと考えています。

私がこの言葉と出会ったのは、今から35年ほど前。精神科医になって5、6年目のことです。偶然、雑誌に掲載されていた論文を目にしました。当時私は、統合失調症の患者さんを抱えていたのですが、治療してもなかなかよくならず、自分の無力さに失望する毎日だったのです。

ネガティブ・ケイパビリティとは、「どうにも答えの出ない、対処できない事態に耐える力」という意味です。この概念は、もともとイギリスの詩人、ジョン・キーツが19世紀に言及していて、その後、イギリスの精神分析の権威、ウィルフレッド・R・ビオンが発展させました。解決できない事柄の理由を性急に求めず、《中ぶらりんの状態を持ちこたえる》という考え方です。

本来「ケイパビリティ(capabil-ity)」とは、才能や解決処理能力などポジティブなものを指す言葉ですが、この場合はまったく逆で、答えを出さないことに重きを置いています。

人間の脳はもともと「知りたい、わかりたい」という性質を持っているため、わけのわからないものに直面すると脳が苛立ち、とりあえず意味づけをして理解しようとするのです。その「わかりたい」という欲望を制御しながら、結論が出ないまま持ちこたえる力こそが、ネガティブ・ケイパビリティなのです。

どうしたら患者さんによりよい治療ができるのかと悩み、答えを急いでいた私にとっては、ありがたい概念でした。症状が思うように改善しなくても医師として寄り添っていけば、結論を出さなくても悪い方向にはいかない。そう考えられるようになったのです。