「私が働くことには賛成していても、やりたい仕事がたくさんある夫は、育児に協力的だったとは言えない人。その一つひとつの出来事を、私はけっこう執念深く覚えているのです(笑)」
小児科医である伊藤瑞子さんが、長崎県の離島・対馬の病院に院内保育と病児保育の施設をつくったのは、30年以上前のこと。自身の経験から、育児をしながら働く女性を支える環境づくりに関心を寄せてきた。5年前には、71歳で大学院へ。「育児の共有」をテーマに、修士論文もまとめた。どのような問題もわが身に引き寄せて考える姿勢は、2021年の東京オリンピック開会式で「君が代」を独唱し、『紅白歌合戦』でトリを務めた次女のMISIAさんにも受け継がれているようだ。前編では、離島の病院で過ごした日々、長男の出産から、次女・MISIAさんの子育てまでを語ってもらった。後編はその後の伊藤さんの選択に迫る――(構成=福永妙子 撮影=杉本圭)

<前編よりつづく

「副院長になれない」長崎県の人事委に対して訴訟

家族で長崎県の対馬に渡ったのは、長男が中学2年、長女が中学1年、次女が5歳のときです。長崎は離島の多い県ですから、緊急時には自衛隊の協力のもと、ヘリコプターで患者を搬送するシステムが整っていました。それでも、現地で最新の治療をしたほうがいい。離島医療や地域医療の中核となる病院に勤めて、夫はそう考えるようになったのでしょう。

対馬で過ごしたのは10年間。島を出たのは、ある出来事をきっかけに病院を辞めようと決意したからです。

92年、夫は院長、私は診療部長を務めていましたが、その前年に副院長が退職。離島ということもあって若い医師しかこないため、私を副院長に、という話が持ち上がりました。ところが病院の理事長である町長が、「あなたを副院長にはできない。診療部長の職のまま、副院長の仕事をすればいいじゃないですか」と言ったのです。

そのころの長崎県では、たとえば夫婦がともに教員だった場合、妻が辞めない限り、夫は管理職に就けませんでした。私の知人にもとても教育熱心な女性の先生がいたのですが、辞めるべきか悩んでらっしゃいましたね。夫に「自分は別に管理職にならなくていいから、教員を続けなさい」と言われても、周囲から「あんたが辞めてやらないと、旦那がかわいそうだ」などと言われる。当時は男性優位のこうした人事が県の不文律だったようです。

男女雇用機会均等法が施行されて10年近く経つというのに、院長の妻というだけで副院長への昇任が認められない。納得できず、私は県の人事委員会に対して訴訟を起こすことにしました。判定が出るまでに2年以上を要し、結果は「夫婦で院長と副院長を務めることは、社会通念上好ましくない」ということで、訴えは通りませんでした。

法律より社会通念が優位に立つ判定など考えられない、といまも思います。私は病院を辞めることにしました。そのころ長女と次女がともに暮らしていた福岡へ移り住み、高齢になった夫と私の親のことを考えて職住を一緒にしたクリニックを96年に開業。夫もその後、合流しました。