貧困家庭に生まれ、いじめや不登校を経験しながらも奨学金で高校、大学に進学、上京して書くという仕事についたヒオカさん。現在もアルバイトを続けながら、「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしている。第10回は「大学生活で感じた経済格差の話」です。
大学への入学は「格差」を体感する入口
大学生になって、初めて親の年収を知る機会があった。
奨学金など申請の際、親の所得を所得を証明する書類が必要になるからだ。
父親の年収は100万円ちょっとだった。
その数字を見た時、正直、感想が出てこなかった。
その頃の私は、2人子どもがいる世帯の平均年収がいくらなのか知らなかったのだ。
でもさすがにその年収が低い方であろうということは、ぼんやりとだがわかった。
その後、社会について徐々に知って行く中で、それが相当衝撃的な数字であることを、やっと悟っていくのだった。
実を言うと、高校を卒業するまで、正直自分の家庭がいわゆる「貧困家庭」なのだと、自覚がなかった。
もちろん周囲との違いを数え上げればキリはなかったが、ど田舎の小さなコミュニティの中で比較することはあっても、社会全体で比較することはなかったからだ。
大学への入学は、「格差」を体感するようになる入口だった。
大学は全国から学生が集まってくる。
大学進学率は飛躍的に上昇しているいまでも、全体の進学率は5割ほど。
つまり、「大学生」になった時点で、全体の半分にあたる層に含まれるのである。
国公立大学には苦学生が少なくないというイメージがあるかもしれないが、私が大学生だったころ、絵に描いたようなガチの苦学生は周りにはおらず、多くは中流以上の家庭の子たちだった。
入学早々、何気ない会話から、バックグラウンドの違いを感じることばかりだった。関西だからか、みな関関同立(関西の私大4校を指す)のいずれかを滑り止めで受けていて、「就職に有利だから」国公立を選んだという。お金がないから国公立一本、という自分のような人間はレアキャラだった。